云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」
 叔母の態度は、叔父を窘《たしな》めるよりもむしろお延を庇護《かば》う方に傾いていた。しかしそれを嬉《うれ》しがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
 お延は自分で自分の夫を択《えら》んだ当時の事を憶《おも》い起さない訳に行かなかった。津田を見出《みいだ》した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼の許《もと》に嫁《とつ》ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。また責任者であった。自分の料簡《りょうけん》をよそにして、他人の考えなどを頼りたがった覚《おぼえ》はいまだかつてなかった。
「いったい継子さんは何とおっしゃるの」
「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」
「肝心《かんじん》の当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」
「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」
「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」
「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」
 そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に横《よこた》わる深い疑問であった。「自分の結婚ですらこうだのに」という論理《ロジック》がすぐ彼女の頭に閃《ひら》めいた。「自分の結婚だって畢竟《ひっきょう》は似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。
「叔父さん」と呼びかけた彼女は、呆《あき》れたように細い眼を強く張って彼を見た。
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」
「だってあたしが立ち合えばどうするの」
「とにかく継《つぎ》が是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧《りこう》だと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」
「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」
「ところがまたそれは厭《いや》だというんだ。是非黙っててくれというんだ」
「なぜでしょう」
 お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は遮《さえぎ》った。
「なにきまりが悪いばかりじゃない。成心《せいしん》があっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」
 お延は初めて叔父に強《し》いられる意味を理解した。

        六十六

 お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性に基《もとづ》く牽引性《けんいんせい》以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。
 若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味に充《み》ちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。そうしてその場合における彼女は、天分から云って、いつでも継子の優者であった。経験から推せば、もちろん継子の先輩に違なかった。少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女はよく承知していた。
 この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でも真《ま》に受ける癖があった。お延の自覚から云えば、一つ家に寝起《ねおき》を共にしている長い間に、自分の優越を示す浮誇《ふこ》の心から、柔軟性《じゅうなんせい》に富んだこの従妹《いとこ》を、いつの間にかそう育て上げてしまったのである。
「女は一目見て男を見抜かなければいけない」
 彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女はまた充分それをやり終《おお》せるだけの活きた眼力《がんりき》を自分に具えているものとして継子に対した。そうして相手の驚きが、羨《うらや》みから嘆賞に変って、しまいに崇拝の間際《まぎわ》まで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、あたかも神秘の※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》のごとく、継子の前に燃え上った。彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。
 お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に食《は》み出《だ》している未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。
 結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えは毫《ごう》も変らなかった。彼女は飽《あ》くまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。どこまでも先見の明によって、天の幸福を享《う》ける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜《ひょうぼう》していた。
 過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に躍《おど》らせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、辛《つら》いよりもむしろ快よくなかった。それは皆《み》んなが寄ってたかって、今まで糊塗《こと》して来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。こっちの「我《が》」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」
 彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って叩《たた》きつける事のできないものであった。もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心に使嗾《しそう》して、自分に当擦《あてこす》りをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。
 膳《ぜん》を引かせて、叔母の新らしく淹《い》れて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交《こ》み入《い》った蟠《わだか》まりが蜿蜒《うねく》っていようと思うはずがなかった。造りたての平庭《ひらにわ》を見渡しながら、晴々《せいせい》した顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になった樹《き》や石の配置について批評しあった。
「来年はあの松の横の所へ楓《かえで》を一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴が開《あ》いてるようでおかしいからね」
 お延は何の気なしに叔父の指《さ》している見当《けんとう》を見た。隣家《となり》と地続《じつづ》きになっている塀際《へいぎわ》の土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さな孟宗藪《もうそうやぶ》をこんもり繁《しげ》らした根の辺《あたり》が、叔父のいう通り疎《まば》らに隙《す》いていた。先刻《さっき》から問題を変えよう変えようと思って、暗《あん》に機会を待っていた彼女は、すぐ気転を利《き》かした。
「本当ね。あすこを塞《ふさ》がないと、さもさも藪《やぶ》を拵《こしら》えましたって云うようで変ね」
 談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。

        六十七

 それは叔父が先刻玄関先で鍬《くわ》を動かしていた出入《でいり》の植木屋に呼ばれて、ちょっと席を外《はず》した後《あと》、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。
 まだ学校から帰らない百合子《ゆりこ》や一《はじめ》の噂《うわさ》に始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方に滑《すべ》り込みつつあった。
「慾張屋《よくばりや》さん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」
 叔母はわざわざ百合子の命《つ》けた渾名《あざな》で継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。自分に許された小天地のうちでは飽《あ》くまで放恣《ほうし》なくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たように竦《すく》んでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭という籠《かご》の中で、さも愉快らしく囀《さえず》る小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。
「今日は何のお稽古《けいこ》に行ったの」
 叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹《いとこ》の多慾に驚ろかされた。そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
 叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前|殊勝《しゅしょう》らしい顔をしてなるほどと首肯《うなず》かなければならなかった。
 夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人《りょうじん》に対する親切に違なかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事な稽古《けいこ》がいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女を善《よ》くするものではなかった。しかし女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦《まさつ》するには相違なかった。しかし怜悧《れいり》に研《と》ぎ澄《すま》すものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のお蔭《かげ》でそれを今日《こんにち》に発達させて来た。二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」
 従妹《いとこ》のどこにも不平らしい素振《そぶり》さえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。強《し》いて解釈しようとすれば、彼らは姪《めい》と娘を見る眼に区別をつけているとでも云うよりほかに仕方がなかった。こういう考えに襲われると、お延は突然|口惜《くや》しくなった。そういう考えがまた時々|発作《ほっさ》のようにお延の胸を掴《つか》んだ。しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えない袖《そで》を顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けない謎《なぞ》のように不断から見つめていた。
「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性《しんぱいしょう》でないから」
「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ宅《うち》にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」
「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
「そりゃお前と継《つぎ》とは……」
 中途で止《や》めた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味
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