も「自分の若い時の己惚《おのぼれ》は、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌《あいづち》を打ってくれた。……
叔父の前に坐ったお延は自分の後《うしろ》にあるこんな過去を憶《おも》い出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談《じょうだん》のうちに、何か真面目《まじめ》な意味があるのではなかろうかという気さえ起った。
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」
お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。
六十三
感傷的の気分を笑に紛《まぎ》らした彼女は、その苦痛から逃《のが》れるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。
「昨日《きのう》の事は全体どういう意味なの」
彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。
「お前はどう思う」
特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣《めづか》いをして彼女をじっと見た。
「解らないわ。藪《やぶ》から棒にそんな事|訊《き》いたって。ねえ叔母さん」
叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気が利《き》いてるからっておっしゃるんだよ」
お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論|朧気《おぼろげ》ながらある臆測《おくそく》があった。けれども強《し》いられないのに、悧巧《りこう》ぶってそれを口外するほど、彼女の教育は蓮葉《はすは》でなかった。
「あたしにだって解りっこないわ」
「まああてて御覧。たいてい見当《けんとう》はつくだろう」
どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の気色《けしき》を見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。
「見合じゃなくって」
「どうして。――お前にはそう見えるかね」
お延の推測を首肯《うけが》う前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。しまいに彼は大きな声を出して笑った。
「あたった、あたった。やっぱりお前の方が住《すみ》より悧巧だね」
こんな事で、二人の間《ま》に優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評《ひやか》した。
「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」
「お前も御賞《おほめ》にあずかったって、あんまり嬉《うれ》しくないだろう」
「ええちっともありがたかないわ」
お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋《あっせん》ぶりがまた描《えが》き出《いだ》された。
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終《しじゅう》継子さんと、それからあの三好さんて方《かた》を、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」
「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事|夥《おびただ》しいんだからな。引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるで紙袋《かんぶくろ》を被《かぶ》った猫見たいだね。そこへ行くと、お延のようなのはどうしても得《とく》だよ。少くとも当世向《とうせいむき》だ」
「厭《いや》にしゃあしゃあしているからでしょう。何だか賞《ほ》められてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」
こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ不成効《ふせいこう》に終った、昨夕《ゆうべ》の会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。
「何でまたあたしがあの席に必要だったの」
「お前は継子の従姉《いとこ》じゃないか」
ただ親類だからというのが唯一《ゆいいつ》の理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。
「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」
「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」
叔父の目的中には、昨夕《ゆうべ》の機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。それを叔父の口から判切《はっきり》聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性《きしょう》がそこに現われているように思って、暗《あん》に彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかと恨《うら》んだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。しかしその後《あと》から、吉川夫人と自分との間に横《よこた》わる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟《ひっきょう》どうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕《かんじょ》の念も起って来た。
六十四
お延はその問題をそこへ放《ほう》り出《だ》したまま、まだ自分の腑《ふ》に落ちずに残っている要点を片づけようとした。
「なるほどそういう意味|合《あい》だったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何かあるんでしょう」
「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値《ねうち》は充分あるだろう」
「ええ、有るには有るわ」
お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の一物《いちもつ》を胸に蔵《しま》い込《こ》んでいた。
「実はお前にお婿さんの眼利《めきき》をして貰《もら》おうと思ったのさ。お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」
叔父の平生から推して、お延はどこまでが真面目《まじめ》な相談なのか、ちょっと判断に迷った。
「まあ大変な御役目を承《うけたま》わったのね。光栄の至りだ事」
こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を抑《おさ》えた。
「あたしのようなものが眼利《めきき》をするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」
「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だから皆《みん》なが訊《き》きたがるんだよ」
「冷評《ひやか》しちゃ厭《いや》よ」
お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分に媚《こ》びる一種の快感を味わった。それは自分が実際|他《ひと》にそう思われているらしいという把捉《はそく》から来る得意にほかならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面《てきめん》の事実で破壊されべき性質のものであった。彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後|今日《こんにち》に至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違《かんちがい》の痕迹《こんせき》で、すでにそこここ汚《よご》れていた。畢竟《ひっきょう》夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父に煽《あお》られてすぐ図に乗るほど若くもなかった。
「人間はよく交際《つきあ》って見なければ実際解らないものよ、叔父さん」
「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」
「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」
「そりゃ男の云《い》い草《ぐさ》だろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよく旨《うま》い事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」
「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」
叔母はいつものようにお延に加勢《かせい》しなかった。さればと云って、叔父の味方にもならなかった。彼女の予言を強《し》いる気色《けしき》を見せない代りに、叔父の悪強《わるじ》いもとめなかった。始めて嫁にやる可愛《かわい》い長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打《ねうち》は充分あるといった風も見えた。お延は当《あた》り障《さわ》りのない事を一口二口云っておくよりほかに仕方がなかった。
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」
その後《あと》を待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、また催促するように訊《き》いた。
「それっきりかね」
「だって、あたしあの方《かた》の一軒《いっけん》置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」
「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言《ひとこと》で、ずばりと向うの急所へあたるような……」
「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」
「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が擦《す》り減《へ》らされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚《どんかく》だけよ」
六十五
口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪《こうお》を改めるはずがないという事もよく承知していた。だから睦《むつま》しそうな津田と自分とを、彼は始終《しじゅう》不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間を見損《みそく》なったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳《ようえい》するために、彼の心に下層にいつも沈澱《ちんでん》しているらしかった。
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに執濃《しつこ》く聴こうとするのだろう」
お延は解《げ》しかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、暗《あん》に叔父から目指《めざ》されているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。彼はお延を措《お》いて叔母の方を向いた。
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり旦那様《だんなさま》の感化かな。不思議なもんだな」
「あなたがあんまり苛《いじ》めるからですよ。さあ云え、さあ
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