にばかりは参らんです、世の中というものはね。第一|物《もの》に区切《くぎり》のあるという事をあなたは御承知ですか」
 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶《あいさつ》も相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対《いっつい》の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経《た》たない、云わば新生活の門出《かどで》にある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達も長《なが》の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終《すえしじゅう》まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のように膏気《あぶらけ》が抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来に横《よこた》わる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢《つや》を持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真《しん》に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。
 そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧《わ》いているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前に据《す》えられた膳《ぜん》に向って胡坐《あぐら》を掻《か》きながら、彼女を見た。
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
 お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」
 飯櫃《おはち》があいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。
「御給仕をしたくったって、麺麭《パン》だからできないよ」
 下女が皿の上に狐色に焦《こ》げたトーストを持って来た。
「お延、叔父さんは情《なさ》けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想《かわいそう》だろう」
 糖尿病《とうにょうびょう》の叔父は既定の分量以外に澱粉質《でんぷんしつ》を摂取《せっしゅ》する事を主治医から厳禁されてしまったのである。
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
 叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生《なま》のままで供えられた。
 むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情《なさけ》なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」
 叔父は叔母を顧《かえり》みた。
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」

        六十一

 小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で出没《しゅつぼつ》するこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。
 肥った身体《からだ》に釣り合わない神経質の彼には、時々自分の室《へや》に入ったぎり、半日ぐらい黙って口を利《き》かずにいる癖がある代りに、他《ひと》の顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないでは片時《かたとき》もいられないといった気作《きさく》な風があった。それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的な想《おも》いやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分の手持無沙汰《てもちぶさた》を避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。彼の成効《せいこう》に少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上|極《きわ》めて有利な彼のこの話術は、その所有者の天から稟《う》けた諧謔趣味《かいぎゃくしゅみ》のために、一層|派出《はで》な光彩を放つ事がしばしばあった。そうしてそれが子供の時分から彼の傍《そば》にいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。機嫌《きげん》のいい時に、彼を向うへ廻して軽口《かるくち》の吐《つ》き競《くら》をやるくらいは、今の彼女にとって何の努力も要《い》らない第二の天性のようなものであった。しかし津田に嫁《とつ》いでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。ところが最初|慎《つつし》みのために控えた悪口《わるくち》は、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。彼女は物足らなかった。同時に夫を欺《あざ》むいているような気がしてならなかった。たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこに昔《むか》しの自由を憶《おも》い出させる或物があった。彼女は生豆腐《なまどうふ》を前に、胡坐《あぐら》を掻《か》いている剽軽《ひょうきん》な彼の顔を、過去の記念のように懐《なつ》かし気に眺めた。
「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込《しこみ》じゃないの。津田に教わった覚《おぼえ》なんか、ありゃしないわ」
「ふん、そうでもあるめえ」
 わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに忌《い》み嫌《きら》う叔母の方を見た。傍《はた》から注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母は素知《そし》らぬ顔をして取り合わなかった。すると目標《あて》が外《はず》れた人のように叔父はまたお延に向った。
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」
 お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなに白《しら》ばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」
「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目《まじめ》くさってお訊《き》きになるの」
「少しこっちにも料簡《りょうけん》があるんだ、返答次第では」
「おお怖《こわ》い事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」
「本当にかい」
「ええ。ずいぶん叔父さんも苦呶《くど》いのね」
「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」
 こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、頷《あご》でしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、ちょうどお誂《あつ》らえ向《むき》かも知れないがね」
 淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫《な》でた。彼女は急に悲しい気分に囚《とら》えられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」
 津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分《からかいはんぶん》の叔父の笑談《じょうだん》を、ただ座興から来た出鱈目《でたらめ》として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙《すき》があり過ぎた。と云って、その隙を飽《あ》くまで取《と》り繕《つく》ろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。もう少しで涙が眼の中に溜《た》まろうとしたところを、彼女は瞬《またた》きでごまかした。
「いくらお誂《あつ》らえ向《むき》でも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」
 年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した光沢《つや》のある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。

        六十二

 親身《しんみ》の叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛《かわい》がられているという信念を常にもっていた。洒落《しゃらく》でありながら神経質に生れついた彼の気合《きあい》をよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分|違《たが》わず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも年齢《とし》の若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作《しょさ》を眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。
 いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成効《せいこう》するに違ないと信じていた。津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間に熟《こな》しつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間に注《そそ》がれた。こんな時に、叔父なら嬉《うれ》しがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれを逐一《ちくいち》叔父に話してしまえと命令した。その命令に背《そむ》くほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。
 こうして叔父夫婦を欺《あざ》むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念《けねん》もなく彼女のために騙《だま》されているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。有体《ありてい》に見透《みすか》した叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間に横《よこた》わる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。粗放のようで一面に緻密《ちみつ》な、無頓着《むとんじゃく》のようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田を嫌《きら》っていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」と訊《き》かれた裏側に、「じゃおれのようなものは嫌《きらい》だったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうその気下味《きまず》い関《せき》を通り越していた。
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は要《い》らないから」と親切に云ってくれた。
 お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分に惚《ほ》れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」
 不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を精一杯《せいいっぱい》愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。また叔父の例の悪口《わるくち》が始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまり嫉妬《しっと》から来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母
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