まで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭《いや》な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆《たばこぼん》も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
津田の挨拶《あいさつ》に軽い会釈《えしゃく》をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊《き》いた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅《うち》へいらっしゃらなくなったようね」
細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下《としした》の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下《めした》の男であった。
「まだ嬉《うれ》しいんでしょう」
津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳《はんとし》と少しになります」
「早いものね、ついこの間《あいだ》だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉《うれ》しいところは通り越しちまったの。嘘《うそ》をおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊《さっぱり》とおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定《かんじょう》です」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」
十一
吉川の細君はこんな調子でよく津田に調戯《からか》った。機嫌《きげん》の好い時はなおさらであった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談《じょうだん》とも真面目《まじめ》とも片のつかない或物が閃《ひら》めく事がたびたびあった。そんな場合に出会うと、根強い性質《たち》に出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥《こだわ》った。そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根を掘《ほ》じって、相手の本意を突き留めようとした。遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的に慢《たか》ぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮に充《み》ちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつの間《ま》にかそこへ引《ひ》き摺《ず》り込まれた。
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」
「どうして? あなた方《がた》の御年歯《おとし》を伺ったのが意地が悪いの」
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような訊《き》き方をしておいて、わざとその後《あと》をおっしゃらないんだから」
「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物《きんもつ》よ。あなたがその癖をやめると、もっと人好《ひとずき》のする好い男になれるんだけれども」
津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に応《こた》える痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下《みくだ》していた。細君は微笑した。
「嘘《うそ》だと思うなら、帰ってあなたの奥さんに訊《き》いて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」
津田の顔が急に堅くなった。唇《くちびる》の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝《ひざ》の上に落したぎり何も答えなかった。
「解ったでしょう、誰だか」
細君は彼の顔を覗《のぞ》き込むようにして訊《き》いた。彼は固《もと》よりその誰であるかをよく承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気は毫《ごう》もなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言の裡《うち》に何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気に障《さわ》ったら堪忍《かんにん》してちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
細君はすぐ元の軽い調子を恢復《かいふく》した。
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり得《とく》なのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方が更《ふ》けてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」
細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成《ろうせい》よ。本当に怜悧《りこう》な方《かた》ね、あんな怜悧な方は滅多《めった》に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。
十二
その時二人の頭の上に下《さが》っている電灯がぱっと点《つ》いた。先刻《さっき》取次に出た書生がそっと室《へや》の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸《お》ろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉《ガスだんろ》の色のだんだん濃くなって来るのを、最前《さいぜん》から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送《もくそう》した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬《レモン》の一切《ひときれ》を除《よ》けるようにしてその余りを残りなく啜《すす》った。そうしてそれを相図《あいず》に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固《もと》より単簡《たんかん》であった。けれども細君の諾否《だくひ》だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合《くりあわ》せさえつけば」
彼女はさも無雑作《むぞうさ》な口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日《あした》から休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他《ひと》のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌《きげん》のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉《うれ》しかった。自分の態度なり所作《しょさ》なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好《す》いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打《ど》やされた刹那《せつな》に受ける快感に近い或物であった。
同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕《ゆたか》にもっていた。彼はその自己をわざと押《お》し蔵《かく》して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲《なぶ》られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚《よ》りかかっていた。
彼が用事を済まして椅子《いす》を離れようとした時、細君は突然口を開《ひら》いた。
「また子供のように泣いたり唸《うな》ったりしちゃいけませんよ。大きな体《なり》をして」
津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙《からかみ》の開閉《あけたて》が局部に応《こた》えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体《からだ》全体が寝床《ねどこ》の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度《こんだ》は大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅《くちはば》ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞《みまい》に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」
細君の様子は本気なのか調戯《からか》うのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠《くちごも》って躊躇《ちゅうちょ》した。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。
十三
往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇《よいやみ》の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
冷たそうに燦《ぎら》つく肌合《はだあい》の七宝《しっぽう》製の花瓶《かびん》、その花瓶の滑《なめ》らかな表面に流れる華麗《はなやか》な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒《あおぐろ》い地《じ》の中に茶の唐草《からくさ》模様を浮かした重そうな窓掛、三隅《みすみ》に金箔《きんぱく》を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟《しげき》が、すでに明るい電灯の下《もと》を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
彼は無論この渦《うず》まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻《さっき》彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆《いりまめ》を口に入れた人のように、咀嚼《そしゃく》しつつ味わった。
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中《うち》で自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露《ばくろ》した人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
今の津田はけっしてこの問題に解決を与
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