うんだ」
彼は開いた手紙を、そのまま火鉢《ひばち》の向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞ当《あて》にしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦《れんが》の塀《へい》を一丁も拵《こしら》えやしまいし」
津田の言葉に偽《いつわり》はなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月《まいげつ》息子《むすこ》夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出《はで》好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまはきっと私達《わたしたち》が要らない贅沢《ぜいたく》をして、むやみに御金をぱっぱっと遣《つか》うようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計《くらし》を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯《とし》に変りはないかも知れないが、周囲《ぐるり》はまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊《き》くから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」
津田は平生《ふだん》からお延が自分の父を軽蔑《けいべつ》する事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩《も》らさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
夫の手前老人に対する批評を憚《はば》かった細君の話頭《わとう》は、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語《ひとりごと》のように云った。
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒《らち》は開《あ》かないよ」
「でもほかに当《あて》がなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
その時津田は真《ま》ともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」
八
「厭《いや》よ、あたし」
お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀《よど》みもなかった。遠慮と斟酌《しんしゃく》を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然|停《と》められた時のような衝撃《ショック》を受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ強《し》いて頼まないでもいい。しかし……」
津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬《すく》って追《お》い退《の》けるように遮《さえぎ》った。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計《くらし》に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
お延が一概に津田の依頼を斥《しりぞ》けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄《みえ》に制せられたのだという事がようやく津田の腑《ふ》に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴《ふいちょう》しちゃ困るよ。買い被《かぶ》られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴した覚《おぼえ》なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」
津田は追窮《ついきゅう》もしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切《とぎ》らした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別《ふんべつ》も出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
彼女は金《きん》の入った厚い帯の端《はじ》を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳《かざ》した。津田にはその意味がちょっと呑《の》み込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段《さんだん》を、嫁に来たての若い細君が、疾《と》くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
お延は笑いながら、軽蔑《さげす》むような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑《げび》た真似《まね》をさせたくなかった。お延は弁解した。
「時《とき》が知ってるのよ。あの婢《おんな》は宅《うち》にいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書《はがき》さえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」
細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉《うれ》しい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜《ほこ》りを傷《きずつ》けるという意味において彼は躊躇《ちゅうちょ》した。
「まあよく考えて見よう」
彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上《あが》って行った。
九
翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段《はしごだん》の途中で吉川に出会った。しかし彼は下《くだ》りがけ、向《むこう》は上《のぼ》りがけだったので、擦《す》れ違《ちがい》に叮嚀《ていねい》な御辞儀《おじぎ》をしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯《ひるめし》に間もないという頃、彼はそっと吉川の室《へや》の戸を敲《たた》いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草《たばこ》を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
津田は固《もと》より表向の用事で、この室へ始終《しじゅう》出入《しゅつにゅう》すべき人ではなかった。跋《ばつ》の悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」
「そんなら後《あと》にしてくれたまえ。今少し差支《さしつか》えるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
音のしないように戸を締《し》めた津田はまた自分の机の前に帰った。
午後になってから彼は二返《にへん》ばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使《きゅうじ》に訊《き》いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻《さっき》御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
毎日人の出入《でいり》の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴《つ》れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執《と》った。
時間になった時、彼はほかの人よりも一足|後《おく》れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋《ポッケット》から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅《うち》へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅《うち》まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門を潜《くぐ》る必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」
彼は時々こういう事実を背中に背負《しょ》って見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自《みずか》ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫《ごう》も崩《くず》さずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他《ひと》に見せたがるのと同じような心理作用の下《もと》に、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽《あ》くまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。
十
厳《いか》めしい表玄関の戸はいつもの通り締《し》まっていた。津田はその上半部《じょうはんぶ》に透《すか》し彫《ぼり》のように篏《は》め込《こ》まれた厚い格子《こうし》の中を何気なく覗《のぞ》いた。中には大きな花崗石《みかげいし》の沓脱《くつぬぎ》が静かに横たわっていた。それから天井《てんじょう》の真中から蒼黒《あおぐろ》い色をした鋳物《いもの》の電灯笠《でんとうがさ》が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例《ためし》のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍《そば》にある内玄関《ないげんかん》から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
小倉《こくら》の袴《はかま》を着けて彼の前に膝《ひざ》をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑《の》み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊《き》いた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここ
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