ありゃしないわ」
単純なこの一言《いちごん》は急に津田の機鋒《きほう》を挫《くじ》いた。同時に、彼の語勢を飛躍させた。
「なければどこからその疑いが出て来たんです」
「もし疑ぐるのが悪ければ、謝《あや》まります。そうして止《よ》します」
「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」
「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」
「だからその事実を聴《き》かせて下さればいいんです」
「事実はすでに申し上げたじゃないの」
「それは事実の半分か、三分一です。僕はその全部が聴きたいんです」
「困るわね。何といってお返事をしたらいいんでしょう」
「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった一口《ひとくち》で済んじまう事です」
今まで困っていたらしい清子は、この時急に腑《ふ》に落ちたという顔つきをした。
「ああ、それがお聴きになりたいの」
「無論です。先刻《さっき》からそれが伺いたければこそ、こうしてしつこくあなたを煩《わずら》わ
前へ
次へ
全746ページ中736ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング