もいいかね、後で聴いといてくれたまえ」
「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田はまた訊《き》いた。
「何をして暮しているのかね、その奥さんは」
「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお活《い》けになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」
「そうかい。本は?」
「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣《はんさ》にわたるので、とうとうあははと笑い出した。津田はようやく気がついて、少し狼狽《あわて》たように話を外《そ》らせた。
「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞《ふさ》がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」
「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」
 先生というのは書の専門家であった。方々にかかっている額や看板でその落※[#「(肄−聿)+欠」、第3水準1−86−31]《らっかん》を覚えていた津田は「へええ」と云った。
「もう年寄だろうね」
「ええお爺《じい》さんです。こんなに白い髯《ひげ》を生やして」
 下女は胸のあたりへ自
前へ 次へ
全746ページ中709ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング