言葉は明かに津田の耳に入らなかった。けれども語勢その他から推して、一事はたしかであった。彼女は崖《がけ》の上から崖の下へ向けて話しかけていた。だから順序を云えば、崖の下からも是非|受《う》け応《こた》えの挨拶《あいさつ》が出なければならないはずであった。ところが意外にもその方はまるで音沙汰《おとさた》なしで、互い違いに起る普通の会話はけっして聴かれなかった。しゃべる方はただ崖の上に限られていた。
その代り足音だけは先刻のようにとまらなかった。疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を上《のぼ》って行った。それが上り切ったと思う頃に、足を運ぶ女の裾《すそ》が硝子戸の上部の方に少し現われた。そうしてすぐ消えた。津田の眼に残った瞬間の印象は、ただうつくしい模様の翻《ひる》がえる様であった。彼は動き去ったその模様のうちに、昨夕階段の下から見たと同じ色を認めたような気がした。
百八十
室《へや》に帰って朝食《あさめし》の膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。
「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」
「ええ。あちらへ行って御覧になりました
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