て、抱き合うように彼の頭の中を通過した。しかしそれから後《あと》の彼はもう自分の主人公ではなかった。どこから来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。一分《いっぷん》の猶予《ゆうよ》なく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊《き》いたり、馬車に乗るか俥《くるま》にするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌《あいきょう》さえ、自由自在に忙がしい短時間の間に操縦《そうじゅう》して退《の》けた。
彼はやがて否応《いやおう》なしにズックの幌《ほろ》を下《おろ》した馬車の上へ乗せられた。そうして御免といいながら自分の前に腰をかける先刻《さっき》の若い男を見出すべく驚ろかされた。
「君もいっしょに行くのかい」
「へえ、お邪魔でも、どうか」
若い男は津田の目指《めざ》している宿屋の手代《てだい》であった。
「ここに旗が立っています」
彼は首を曲げて御者台《ぎょしゃだい》の隅《すみ》に挿《さ》し込んである赤い小旗を見た。暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれ
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