りません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」
 細君の様子は本気なのか調戯《からか》うのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠《くちごも》って躊躇《ちゅうちょ》した。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。

        十三

 往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇《よいやみ》の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
 冷たそうに燦《ぎら》つく肌合《はだあい》の七宝《しっぽう》製の花瓶《かびん》、その花瓶の滑《なめ》らかな表面に流れる華麗《はなやか》な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒《あおぐろ》い
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