がいい」
「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
「馬鹿を云うな」
「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」
 津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗《のぞ》き込むようにして見た。それから好い恰好《かっこう》をした鼻柱に冷笑の皺《しわ》を寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。もう一息《ひといき》で懺悔《ざんげ》の深谷《しんこく》へ真《ま》ッ逆《さか》さまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄の後《うしろ》に平坦《へいたん》な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに怖《こわ》がるんです。たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」
「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんや
前へ 次へ
全746ページ中371ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング