「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に溯《さかのぼ》って行った。
八十四
自分のまだ知らない夫の領分に這入《はい》り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。云っても肝心《かんじん》のところはわざと略してしまった。例《たと》えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深《よふか》しをしていたかの点になると、彼は故意に暈《ぼか》しさって、全く語らないという風を示した。それを訊《き》けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥《じら》しているのではなかろうかという気さえ起した。
お延は平生から小林を軽く見ていた。半《なか》ば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑《ぶべつ》の裏には、まだ他《ひと》に向って公言しない大きな因子《ファクトー》があった。それは単に小林が貧乏である
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