まで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭《いや》な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆《たばこぼん》も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
津田の挨拶《あいさつ》に軽い会釈《えしゃく》をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊《き》いた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅《うち》へいらっしゃらなくなったようね」
細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下《としした》の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下《めした》の男であった。
「まだ嬉《うれ》しいんでしょう」
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