ためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。
十
厳《いか》めしい表玄関の戸はいつもの通り締《し》まっていた。津田はその上半部《じょうはんぶ》に透《すか》し彫《ぼり》のように篏《は》め込《こ》まれた厚い格子《こうし》の中を何気なく覗《のぞ》いた。中には大きな花崗石《みかげいし》の沓脱《くつぬぎ》が静かに横たわっていた。それから天井《てんじょう》の真中から蒼黒《あおぐろ》い色をした鋳物《いもの》の電灯笠《でんとうがさ》が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例《ためし》のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍《そば》にある内玄関《ないげんかん》から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
小倉《こくら》の袴《はかま》を着けて彼の前に膝《ひざ》をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑《の》み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊《き》いた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここ
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