彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」
 こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの外套《がいとう》を取りにいらっしゃいました」
 夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
 周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が訊《き》けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生《よみが》えった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作《ほっさ》のように込《こ》み上《あ》げてくる滑稽感《こっけいかん》に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中《うち》から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。

        七十八

 お延
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