よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ強《し》いて頼まないでもいい。しかし……」
 津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬《すく》って追《お》い退《の》けるように遮《さえぎ》った。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計《くらし》に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
 お延が一概に津田の依頼を斥《しりぞ》けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄《みえ》に制せられたのだという事がようやく津田の腑《ふ》に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴《ふいちょう》しちゃ困るよ。買い被《かぶ》られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴した覚《おぼえ》なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」
 津田は追窮《ついきゅう》もしなか
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