田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締《し》めた事がないんですもの」
「それで今度《こんだ》その服装《なり》で芝居《しばや》に出かけようと云うのかね」
 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何《なん》にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉《まゆ》をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作《しょさ》は時として変に津田の心を唆《そその》かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側《えんがわ》へ出て厠《かわや》の戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」
 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞《ふさ》ぐようにして訊《き》いた。
「何か御用なの」
 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢《ながじゅばん》よりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「郵便函《ゆうびんばこ》の中を
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