。彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴《どな》り込むような大きな声を出して彼の室《へや》へ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴《ほうふつ》した。
「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を厭《いや》がらせに来たんだ」
「どういう理由《わけ》で」
「理由も糸瓜《へちま》もあるもんか。貴様がおれを厭《いや》がる間は、いつまで経《た》ってもどこへ行っても、ただ追《おっ》かけるんだ」
「畜生ッ」
津田は突然|拳《こぶし》を固めて小林の横《よこ》ッ面《つら》を撲《なぐ》らなければならなかった。小林は抵抗する代りに、たちまち大の字になって室《へや》の真中へ踏《ふ》ん反《ぞ》り返らなければならなかった。
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」
まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。そうしてそれが宿中《やどじゅう》の視聴を脅《おびや》かさなければならなかった。その中には是非とも清子が交《まじ》っていなければならなかった。万事は永久に打ち砕かれなければならなかった。
事実よりも明暸《めいりょう》な想像の一幕《ひとまく》を、描くともなく頭の中に描き出した津田は、突然ぞっとして我に返った。もしそんな馬鹿げた立ち廻りが実際生活の表面に現われたらどうしようと考えた。彼は羞恥《しゅうち》と屈辱を遠くの方に感じた。それを象徴するために、頬《ほお》の内側が熱《ほて》って来るような気さえした。
しかし彼の批判はそれぎり先へ進めなかった。他《ひと》に対して面目《めんぼく》を失う事、万一そんな不始末をしでかしたら大変だ。これが彼の倫理観の根柢《こんてい》に横《よこた》わっているだけであった。それを切りつめると、ついに外聞が悪いという意味に帰着するよりほかに仕方がなかった。だから悪い奴《やつ》はただ小林になった。
「おれに何の不都合《ふつごう》がある。彼奴《あいつ》さえいなければ」
彼はこう云って想像の幕に登場した小林を責めた。そうして自分を不面目にするすべての責任を相手に背負《しょ》わせた。
夢のような罪人に宣告を下した後《あと》の彼は、すぐ心の調子を入れ代えて、紙入の中から一枚の名刺を出した。その裏に万年筆で、「僕は静養のため昨夜《さくや》ここへ来ました」と書いたなり首を傾けた。それから「あなたがおいでの事を今朝《けさ》聴きました」と付け足してまた考えた。
「これじゃ空々《そらぞら》しくっていけない、昨夜《ゆうべ》会った事も何とか書かなくっちゃ」
しかし当《あた》り障《さわ》りのないようにそこへ触れるのはちょっと困難であった。第一書く事が複雑になればなるほど、文字が多くなって一枚の名刺では事が足りなくなるだけであった。彼はなるべく淡泊《あっさり》した口上を伝えたかった。したがって小面倒な封書などは使いたくなかった。
思いついたように違《ちが》い棚《だな》の上を眺めた彼は、まだ手をつけなかった吉川夫人の贈物が、昨日《きのう》のままでちゃんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸《おろ》した。彼は果物籃《くだものかご》の葢《ふた》の間へ、「御病気はいかがですか。これは吉川の奥さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿《さ》し込んだ後《あと》で、下女を呼んだ。
「宅《うち》に関さんという方がおいでだろう」
今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。
「関さんが先刻《さっき》お話した奥さんの事ですよ」
「そうか。じゃその奥さんでいいから、これを持って行って上げてくれ。そうしてね、もしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって」
「へえ」
下女はすぐ果物籃を提《さ》げて廊下へ出た。
百八十二
返事を待ち受ける間の津田は居据《いすわ》りの悪い置物のように落ちつかなかった。ことにすぐ帰って来《く》べきはずの下女が思った通りすぐ帰って来ないので、彼はなおの事心を遣《つか》った。
「まさか断るんじゃあるまいな」
彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、清子の束縛を解《と》く好い方便に違《ちがい》なかった。単に彼と応接する煩《わずら》わしさ、もしくはそれから起り得る嫌疑《けんぎ》を避けようとするのが彼女の当体《とうたい》であったにしたところで、果物籃《くだものかご》の礼はそれを持って来た本人に会って云うのが、順であった。誰がどう考えても無理のない名案を工夫したと信ずるだけに、下女の遅いのを一層|苦《く》にしなければならなかった彼は、ふかしかけた煙草《たばこ》を捨てて、縁側へ出たり、何のためとも知れず、黙って池の中を動いている緋鯉《ひごい》を眺めたり、そこへしゃがんで、軒下に寝ている犬の鼻面《はなづら》へ手を延ばし
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