もいいかね、後で聴いといてくれたまえ」
「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田はまた訊《き》いた。
「何をして暮しているのかね、その奥さんは」
「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお活《い》けになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」
「そうかい。本は?」
「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣《はんさ》にわたるので、とうとうあははと笑い出した。津田はようやく気がついて、少し狼狽《あわて》たように話を外《そ》らせた。
「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞《ふさ》がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」
「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」
 先生というのは書の専門家であった。方々にかかっている額や看板でその落※[#「(肄−聿)+欠」、第3水準1−86−31]《らっかん》を覚えていた津田は「へええ」と云った。
「もう年寄だろうね」
「ええお爺《じい》さんです。こんなに白い髯《ひげ》を生やして」
 下女は胸のあたりへ自分の手をやって書家に相応《ふさ》わしい髯の長さを形容して見せた。
「なるほど。やっぱり字を書いてるのかい」
「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」
 書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざここへ来たのだと下女から聴《き》かされた時、津田は驚ろいて感心した。
「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人《しろうと》は半日ぐらいで、すぐ出来上りそうに考えてるんだが」
 この感想は全く下女に響かなかった。しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。彼は暗《あん》にこの老先生の用向《ようむき》と自分の用向とを見較《みくら》べた。無事に苦しんで義太夫の稽古《けいこ》をするという浜の二人をさらにその傍《かたわら》に並べて見た。それから何の意味とも知れず花を活けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考えた。最後に、残る一人の客、その客は話もしなければ運動もせず、ただぽかんと座敷に坐《すわ》って山を眺めているという下女の観察を聴いた時、彼は云った。
「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏や正月になったら大変だろう」
「いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね」
 津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙を極《きわ》めなければならない季節に、この家《うち》へ入《い》り込《こ》んでくる客の人数《にんず》を挙げた。

        百八十一

 食後の津田は床《とこ》の脇《わき》に置かれた小机の前に向った。下女に頼んで取り寄せた絵端書へ一口ずつ文句を書き足して、その表へ名宛《なあて》を記《しる》した。お延へ一枚、藤井の叔父へ一枚、吉川夫人へ一枚、それで必要な分は済んでしまったのに、下女の持って来た絵端書はまだ幾枚も余っていた。
 彼は漫然と万年筆を手にしたまま、不動の滝《たき》だの、ルナ公園《パーク》だのと、山里に似合わない変な題を付けた地方的の景色をぼんやり眺めた。それからまた印気《インキ》を走らせた。今度はお秀の夫と京都にいる両親|宛《あて》の分がまたたく間《ま》に出来上った。こう書き出して見ると、ついでだからという気も手伝って、ありたけの絵端書をみんな使ってしまわないと義理が悪いようにも思われた。最初は考えていなかった岡本だの、岡本の子供の一《はじめ》だの、その一の学校友達という連想から、また自分の親戚《みうち》の方へ逆戻りをして、甥《おい》の真事《まこと》だの、いろいろな名がたくさん並べられた。初手《しょて》から気がついていながら、最後まで名を書かなかったのは小林だけであった。他《ほか》の意味は別として、ただ在所《ありか》を嗅《か》ぎつけられるという恐れから、津田はどうしてもこの旅行先を彼に知らせたくなかったのである。その小林は不日《ふじつ》朝鮮へ行くべき人であった。無検束をもって自《みずか》ら任ずる彼は、海を渡る覚悟ですでにもう汽車に揺られているかも知れなかった。同時に不規律な彼はまた出立と公言した日が来ても動かずにいないとも限らなかった。絵端書を見て、(もし津田がそれを出すとすると、)すぐここへやって来ないという事はけっして断言できなかった。
 津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介《やっかい》なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙《そば》だてた。するといったん緒口《いとくち》の開《あ》いた想像の光景《シーン》はそこでとまらなかった。彼を拉《らっ》してずんずん先へ進んだ
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