の時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声《かけごえ》と共に、早変りができるかい。早変りをしてこの僕になれるかい」
「そいつは解らないよ」
「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。憚《はばか》りながらここまで来るには相当の修業が要《い》るんだからね。いかに痴鈍《ちどん》な僕といえども、現在の自分に対してはこれで血《ち》の代《しろ》を払ってるんだ」
 津田は小林の得意が癪《しゃく》に障《さわ》った。此奴《こいつ》が狗《いぬ》のような毒血を払ってはたして何物を掴《つか》んでいる? こう思った彼はわざと軽蔑《けいべつ》の色を面《おもて》に現わして訊《き》いて見た。
「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」
「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」
「聴かない方がましなくらいだ」
 小林は嬉《うれ》しそうに身体《からだ》を椅子《いす》の背に靠《もた》せかけてまた笑い出した。
「そこだ。そう来るところがこっちの思う壺《つぼ》なんだ」
「何をいうんだ」
「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」
 津田は厭《いや》な顔をした。
「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」
「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑《けいべつ》に対する僕の復讐《ふくしゅう》がその時始めて実現されるというだけさ」
 津田は言葉を改めた。
「それほど君は僕に敵意をもってるのか」
「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君は乙《おつ》に高くとまって平気でいるじゃないか。つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね」
「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」
「いやどうして。これからいよいよ本論に入ろうというんだ」
 津田は一気に洋盃《コップ》を唇《くちびる》へあてがって、ぐっと麦酒《ビール》を飲み干した小林の様子を、少し呆《あき》れながら眺めた。

        百五十九

 小林は言葉を継《つ》ぐ前に、洋盃を下へ置いて、まず室内を見渡した。女伴《おんなづれ》の客のうち、一組の相手は洗指盆《フィンガーボール》の中へ入れた果物を食った後の手を、袂《たもと》から出した美くしい手帛《ハンケチ》で拭いていた。彼の筋向うに席を取って、先刻《さっき》から時々自分達の方を偸《ぬす》むようにして見る二十五六の方は、※[#「口+加」、第3水準1−14−93]※[#「口+非」、第4水準2−4−8]茶碗《コーヒーぢゃわん》を手にしながら、男の吹かす煙草《たばこ》の煙を眺めて、しきりに芝居の話をしていた。両方とも彼らより先に来ただけあって、彼らより先に席を立つ順序に、食事の方の都合も進行しているらしく見えた時、小林は云った。
「やあちょうど好い。まだいる」
 津田はまたはっと思った。小林はきっと彼らの気を悪くするような事を、彼らに聴こえようがしに云うに違なかった。
「おいもう好い加減に止《よ》せよ」
「まだ何にも云やしないじゃないか」
「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっと慎《つつ》しんでくれ、こんな所へ来て」
「厭《いや》に小心だな。おおかた場末の酒場《バー》とここといっしょにされちゃたまらないという意味なんだろう」
「まあそうだ」
「まあそうだなら、僕のごとき無頼漢《ぶらいかん》をこんな所へ招待するのが間違だ」
「じゃ勝手にしろ」
「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」
 津田は黙ってしまった。小林は面白そうに笑った。
「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」
「それで勝ったつもりなら、勝手に勝ったつもりでいるがいい」
「その代り今後ますます貴様を軽蔑《けいべつ》してやるからそう思えだろう。僕は君の軽蔑なんか屁《へ》とも思っちゃいないよ」
「思わなけりゃ思わないでもいいさ。五月蠅《うるさ》い男だな」
 小林はむっとした津田の顔を覗《のぞ》き込むようにして見つめながら云った。
「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構
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