「いや解らない。軽蔑《けいべつ》の結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。だから君の今夕《こんゆう》の好意に対して、僕はまた留別《りゅうべつ》のために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」
「よかろう」
「よくないたって、僕のような一文《いちもん》なしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」
「だからいいよ」
「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走《ごちそう》になって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西《フランス》料理も、この間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場《バー》の酒も、どっちも無差別に旨《うま》いくらい味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見たまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛を余計感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終《しじゅう》ぐらついてるよ。度胸が坐《すわ》ってないよ。厭《いや》なものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追《おっ》かけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利《き》くためさ。贅沢《ぜいたく》をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」
 津田はてんから相手を見縊《みくび》っていた。けれども事実を認めない訳には行かなかった。小林はたしかに彼よりずうずうしく出来上っていた。

        百五十八

 しかし小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。それは会見の最初ちょっと二人の間に点綴《てんてつ》されながら、前後の勢《いきおい》ですぐどこかへ流されてしまった問題にほかならなかった。
「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明《そうめい》な君を煩《わずら》わしているんだ。もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっとつまらない説でも、君は襟《えり》を正して聴くに違ないんだ。いや僕の僻《ひがみ》でも何でもない、争うべからざる事実だよ。けれども君考えなくっちゃいけないぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。先生だって奥さんだって、そこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。なぜだ? なぜでもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験は甞《な》めていないんだからね。いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩《かのはい》においてをやだ」
 彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのを指《さ》すのだろうと思ったぎりであった。実際小林は相手にそんな質問をかけさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。
「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言《じょごん》――だか忠告だか、または単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、とにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。頭では解る、しかし胸では納得《なっとく》しない、これが現在の君なんだ。つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないと跳《は》ねつけられればそれまでだが、そこに君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。人間の境遇もしくは位地《いち》の懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然《はっきり》云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいの違《ちがい》だろうじゃないか。だからさ、順境にあるものがちょっと面喰《めんくら》うか、迷児《まご》つくか、蹴爪《けつま》ずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝《いっちょう》事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」
「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」
「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」
「よろしい。心得たよ」
「ところがいくら心得たって駄目《だめ》なんだからおかしいや」
 小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林は訊《き》かれない先に説明した。
「そ
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