の後《あと》で継《つ》ぎ足《た》した文句はむしろ蹣跚《まんさん》として揺《ゆら》めいていた。
「思って下さらないたって。――いくら思おうと思っても。――思うだけの因縁《いんねん》があれば、いくらでも思うさ。しかしなけりゃ仕方がないじゃないか」
お延の声は緊張のために顫《ふる》えた。
「あなた。あなた」
津田は黙っていた。
「どうぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思って安心させて下さい。あなた以外にあたしは憑《よ》りかかり所のない女なんですから。あなたに外《はず》されると、あたしはそれぎり倒れてしまわなければならない心細い女なんですから。だからどうぞ安心しろと云って下さい。たった一口でいいから安心しろと云って下さい」
津田は答えた。
「大丈夫だよ。安心おしよ」
「本当?」
「本当に安心おしよ」
お延は急に破裂するような勢で飛びかかった。
「じゃ話してちょうだい。どうぞ話してちょうだい。隠さずにみんなここで話してちょうだい。そうして一思いに安心させてちょうだい」
津田は面喰《めんくら》った。彼の心は波のように前後へ揺《うご》き始めた。彼はいっその事思い切って、何もかもお延の前に浚《さら》け出《だ》してしまおうかと思った。と共に、自分はただ疑がわれているだけで、実証を握られているのではないとも推断した。もしお延が事実を知っているなら、ここまで押して来て、それを彼の顔に叩《たた》きつけないはずはあるまいとも考えた。
彼は気の毒になった。同時に逃げる余地は彼にまだ残っていた。道義心と利害心が高低《こうてい》を描いて彼の心を上下《うえした》へ動かした。するとその片方に温泉行の重みが急に加わった。約束を断行する事は吉川夫人に対する彼の義務であった。必然から起る彼の要求でもあった。少くともそれを済《す》ますまで打ち明けずにいるのが得策だという気が勝を制した。
「そんなくだくだしい事を云ってたって、お互いに顔を赤くするだけで、際限がないから、もう止《よ》そうよ。その代りおれが受け合ったらいいだろう」
「受け合うって」
「受け合うのさ。お前の体面に対して、大丈夫だという証書を入れるのさ」
「どうして」
「どうしてって、ほかに証文の入れようもないから、ただ口で誓うのさ」
お延は黙っていた。
「つまりお前がおれを信用すると云いさえすれば、それでいいんだ。万一の場合が出て来た時は引き受けて下さいって云えばいいんだ。そうすればおれの方じゃ、よろしい受け合ったと、こう答えるのさ。どうだねその辺のところで妥協《だきょう》はできないかね」
百五十
妥協という漢語がこの場合いかに不釣合に聞こえようとも、その時の津田の心事《しんじ》を説明するには極《きわ》めて穏当であった。実際この言葉によって代表される最も適切な意味が彼の肚《はら》にあった事はたしかであった。明敏なお延の眼にそれが映った時、彼女の昂奮《こうふん》はようやく喰《く》いとめられた。感情の潮《うしお》がまだ上《のぼ》りはしまいかという掛念《けねん》で、暗《あん》に頭を悩ませていた津田は助かった。次の彼には喰いとめた潮《うしお》の勢《いきおい》を、反対な方向へ逆用する手段を講ずるだけの余裕ができた。彼はお延を慰めにかかった。彼女の気に入りそうな文句を多量に使用した。沈着な態度を外部側《そとがわ》にもっている彼は、また臨機に自分を相手なりに順応させて行く巧者《こうしゃ》も心得ていた。彼の努力ははたして空《むな》しくなかった。お延は久しぶりに結婚以前の津田を見た。婚約当時の記憶が彼女の胸に蘇《よみが》えった。
「夫は変ってるんじゃなかった。やっぱり昔の人だったんだ」
こう思ったお延の満足は、津田を窮地から救うに充分であった。暴風雨になろうとして、なり損《そく》ねた波瀾《はらん》はようやく収まった。けれども事前《じぜん》の夫婦は、もう事後《じご》の夫婦ではなかった。彼らはいつの間にか吾《われ》知らず相互の関係を変えていた。
波瀾の収まると共に、津田は悟った。
「畢竟《ひっきょう》女は慰撫《いぶ》しやすいものである」
彼は一場《いちじょう》の風波《ふうは》が彼に齎《もたら》したこの自信を抱いてひそかに喜こんだ。今までの彼は、お延に対するごとに、苦手《にがて》の感をどこかに起さずにいられた事がなかった。女だと見下ろしながら、底気味の悪い思いをしなければならない場合が、日ごとに現前《げんぜん》した。それは彼女の直覚であるか、または直覚の活作用とも見傚《みな》される彼女の機略《きりゃく》であるか、あるいはそれ以外の或物であるか、たしかな解剖《かいぼう》は彼にもまだできていなかったが、何しろ事実は事実に違いなかった。しかも彼自身自分の胸に畳み込んでおくぎりで、いまだかつて他《
前へ
次へ
全187ページ中143ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング