だと思っていらっしゃるの、馬鹿らしい。ヒステリーじゃあるまいし」
「じゃ行ってもいいかい」
「よござんすとも」と云った時、お延は急に袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出して顔へ当てたと思うと、しくしく泣き出した。あとの言葉は、啜《すす》り上げる声の間から、句をなさずに、途切《とぎ》れ途切れに、毀《こわ》れ物のような形で出て来た。
「いくらあたしが、……わがままだって、……あなたの療養の……邪魔をするような、……そんな……あたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念をもっているんです……のにあたしがあなたの転地療養を……妨げるなんて……」
 津田はようやく安心した。けれどもお延にはまだ先があった。発作《ほっさ》が静まると共に、その先は比較的すらすら出た。
「あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。いくらあたしが女だって馬鹿だって、あたしにはまたあたしだけの体面というものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、その体面を維持《いじ》して行きたいと思うんです。もしそれを毀損《きそん》されると……」
 お延はこれだけ云いかけてまた泣き出した。あとはまた切れ切れになった。
「万一……もしそんな事があると……岡本の叔父に対しても……叔母に対しても……面目《めんぼく》なくて、合わす顔がなくなるんです。……それでなくっても、あたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切っているんです。……それをあなたは傍《そば》で見ていながら、……すまして……すまして……知らん顔をしていらっしゃるんです」
 津田は急に口を開いた。
「お秀がお前を馬鹿にしたって? いつ? 今日お前が行った時にかい」
 津田は我知らずとんでもない事を云ってしまった。お延が話さない限り、彼はその会見を知るはずがなかったのである。お延の眼ははたして閃《ひら》めいた。
「それ御覧なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行った事が、あなたにはもうちゃんと知れているじゃありませんか」
「お秀が電話をかけたよ」という返事がすぐ津田の咽喉《のど》から外へ滑《すべ》り出さなかった。彼は云おうか止《よ》そうかと思って迷った。けれども時に一寸《いっすん》の容赦《ようしゃ》もなかった。反吐《へど》もどしていればいるほど形勢は危《あや》うくなるだけであった。彼はほとんど行きつまった。しかし間髪《かんはつ》を容《い》れずという際《きわ》どい間際《まぎわ》に、旨《うま》い口実が天から降って来た。
「車夫《くるまや》が帰って来てそう云ったもの。おおかたお時が車夫に話したんだろう」
 幸いお延がお秀の後を追《おっ》かけて出た事は、下女にも解っていた。偶発の言訳が偶中《ぐうちゅう》の功《こう》を奏した時、津田は再度の胸を撫《な》で下《おろ》した。

        百四十九

 遮二無二《しゃにむに》津田を突き破ろうとしたお延は立ちどまった。夫がそれほど自分をごまかしていたのでないと考える拍子《ひょうし》に気が抜けたので、一息《ひといき》に進むつもりの彼女は進めなくなった。津田はそこを覘《ねら》った。
「お秀なんぞが何を云ったって構わないじゃないか。お秀はお秀、お前はお前なんだから」
 お延は答えた。
「そんなら小林なんぞがあたしに何を云ったって構わないじゃありませんか。あなたはあなた、小林は小林なんだから」
「そりゃ構わないよ。お前さえしっかりしていてくれれば。ただ疑ぐりだの誤解だのを起して、それをむやみに振り廻されると迷惑するから、こっちだって黙っていられなくなるだけさ」
「あたしだって同じ事ですわ。いくらお秀さんが馬鹿にしようと、いくら藤井の叔母さんが疎外しようと、あなたさえしっかりしていて下されば、苦《く》になるはずはないんです。それを肝心《かんじん》のあなたが……」
 お延は行きつまった。彼女には明暸《めいりょう》な事実がなかった。したがって明暸な言葉が口へ出て来なかった。そこを津田がまた一掬《ひとすく》い掬った。
「おおかたお前の体面に関わるような不始末でもすると思ってるんだろう。それよりか、もう少しおれに憑《よ》りかかって安心していたらいいじゃないか」
 お延は急に大きな声を揚げた。
「あたしは憑りかかりたいんです。安心したいんです。どのくらい憑りかかりたがっているか、あなたには想像がつかないくらい、憑りかかりたいんです」
「想像がつかない?」
「ええ、まるで想像がつかないんです。もしつけば、あなたも変って来なくっちゃならないんです。つかないから、そんなに澄ましていらっしゃられるんです」
「澄ましてやしないよ」
「気の毒だとも可哀相《かわいそう》だとも思って下さらないんです」
「気の毒だとも、可哀相だとも……」
 これだけ繰り返した津田はいったん塞《つか》えた。そ
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