引き返してしまったので、軽い失望の間に、夕食《ゆうめし》の時間が来るまで、待ち草臥《くたび》れたせいか、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話しかけた。
「ようやく飯か。どうも一人でいると日が長くって困るな」
 看護婦は体《なり》の小《ち》さい血色の好くない女であった。しかし年頃はどうしても津田に鑑定のつかない妙な顔をしていた。いつでも白い服を着けているのが、なおさら彼女を普通の女の群《むれ》から遠ざけた。津田はつねに疑った。――この人が通常の着物を着る時に、まだ肩上《かたあげ》を付けているだろうか、または除《と》っているだろうか。彼はいつか真面目《まじめ》にこんな質問を彼女にかけて見た事があった。その時彼女はにやりと笑って、「私はまだ見習です」と答えたので、津田はおおよその見当を立てたくらいであった。
 膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。
「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐ後《あと》を付け足した。
「今日は奥さんはお見えになりませんね」
「うん、来ないよ」
 津田の口の中にはもう焦《こ》げた麺麭《パン》がいっぱい入っていた。彼はそれ以上何も云う事ができなかった。しかし看護婦の方は自由であった。
「その代り外《ほか》のお客さまがいらっしゃいましたね」
「うん。あのお婆さんだろう。ずいぶん肥《ふと》ってるね、あの奥さんは」
 看護婦が悪口《わるくち》の相槌《あいづち》を打つ気色《けしき》を見せないので、津田は一人でしゃべらなければならなかった。
「もっと若い綺麗《きれい》な人が、どんどん見舞に来てくれると病気も早く癒《なお》るんだがな」と云って看護婦を笑わせた彼は、すぐ彼女から冷嘲《ひや》かし返された。
「でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。よっぽど間《ま》がいいと見えて」
 彼女は小林の来た事を知らないらしかった。
「昨日《きのう》いらしった奥さんは大変お綺麗ですね」
「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。どこか似ているかね、僕と」
 看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、やっぱりにやにやしていた。

        百四十五

 それは看護婦にとって意外な儲《もう》け日《び》であった。下痢《げり》の気味でいつもの通り診察場に出られなかった医者に、代理を頼まれた彼の友人は、午前の都合を付けてくれただけで、午後から夜へかけての時間には、もう顔を出さなかった。
「今日は当直だから晩には来られないんだそうです」
 彼女はこう云って、不断のような忙がしい様子をどこにも見せずに、ゆっくり津田の膳《ぜん》の前に坐《すわ》っていた。
 退屈凌《たいくつしの》ぎに好い相手のできた気になった津田の舌《した》には締りがなかった。彼は面白半分いろいろな事を訊《き》いた。
「君の国はどこかね」
「栃木県です」
「なるほどそう云われて見ると、そうかな」
「名前は何と云ったっけね」
「名前は知りません」
 看護婦はなかなか名前を云わなかった。津田はそこに発見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返して訊《き》いた。
「じゃこれから君の事を栃木県、栃木県って呼ぶよ。いいかね」
「ええよござんす」
 彼女の名前の頭文字はつ[#「つ」に白丸傍点]であった。
「露《つゆ》か」
「いいえ」
「なるほど露《つゆ》じゃあるまいな。じゃ土《つち》か」
「いいえ」
「待ちたまえよ、露《つゆ》でもなし、土《つち》でもないとすると。――ははあ、解《わか》った。つや[#「つや」に白丸傍点]だろう。でなければ、常《つね》か」
 津田はいくらでもでたらめを云った。云うたびに看護婦は首を振って、にやにや笑った。笑うたびに、津田はまた彼女を追窮《ついきゅう》した。しまいに彼女の名がつき[#「つき」に白丸傍点]だと判然《わか》った時、彼はこの珍らしい名をまだ弄《もてあそ》んだ。
「お月《つき》さんだね、すると。お月さんは好い名だ。誰が命《つ》けた」
 看護婦は返答を与える代りに突然逆襲した。
「あなたの奥さんの名は何とおっしゃるんですか」
「あてて御覧」
 看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べた後《あと》で云った。
「お延《のぶ》さんでしょう」
 彼女は旨《うま》くあてた。というよりも、いつの間にかお延の名を聴いて覚えていた。
「お月さんはどうも油断がならないなあ」
 津田がこう云って興じているところへ、本人のお延がひょっくり顔を出したので、ふり返った看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持ったなり立ち上った。
「ああ、とうとういらしった」
 看護婦と入れ代りに津田の枕元へ坐ったお延はたちまち津田を見た。
「来ないと思っていらしったんでしょう」
「いやそうでもない。しかし今日はもう遅いからどうかとも思っていた」
 津田の言葉に偽《いつわ》りは
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