たり》を見廻した。しかしそこには夫を除いて依《たよ》りになるものは一人もいなかった。彼女は何をおいてもまず津田に走らなければならなかった。その津田を疑ぐっている彼女にも、まだ信力は残っていた。どんな事があろうとも、夫だけは共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。
その心理作用が今|喰《く》いとめられなければならなくなった時、通りで会った電車の影をお延は腹の底から呪《のろ》った。もし車中の人が吉川夫人であったとすれば、もし吉川夫人が津田の所へ見舞に行ったとすれば、もし見舞に行ったついでに、――。いかに怜俐《りこう》なお延にも考える自由の与えられていないその後《あと》は容易に出て来なかった。けれども結果は一つであった。彼女の頭は急にお秀から、吉川夫人、吉川夫人から津田へと飛び移った。彼女は何がなしに、この三人を巴《ともえ》のように眺め始めた。
「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない」
今まで避難場のつもりで夫の所へ駈け込もうとばかり思っていた彼女は考えざるを得なかった。
「この分じゃ、ただ行ったっていけない。行ってどうしよう」
彼女はどうしようという分別なしに歩いて来た事に気がついた。するとどんな態度で、どんな風に津田に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、さも重要らしく彼女に見え出して来た。夫婦のくせに、そんなよそ行《いき》の支度なんぞして何になるという非難をどこにも聴《き》かなかったので、いったん宅《うち》へ帰って、よく気を落ちつけて、それからまた出直すのが一番の上策だと思い極《きわ》めた彼女は、ついにもう五六分で病院へ行き着こうという小路《こうじ》の中ほどから取って返した。そうして柳の木の植《うわ》っている大通りから賑《にぎ》やかな往来まで歩いてすぐ電車へ乗った。
百四十四
お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。電車から降りて一丁ほどの所を、身に染《し》みるような夕暮の靄《もや》に包まれた後の彼女には、何よりも火鉢《ひばち》の傍《はた》が恋しかった。彼女はコートを脱ぐなりまずそこへ坐《すわ》って手を翳《かざ》した。
しかし彼女にはほとんど一分の休憩時間も与えられなかった。坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。手紙の文句は固《もと》より簡単であった。彼女は封を切る手数とほとんど同じ時間で、それを読み下す事ができた。けれども読んだ後の彼女は、もう読む前の彼女ではなかった。わずか三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。一度に外から持って帰った気分に火を点《つ》けたその書翰《しょかん》の前に彼女の心は躍《おど》った。
「今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう」
それでなくっても、もう一遍出直すはずであった彼女は、時間に関《かま》う余裕さえなかった。彼女は台所から膳《ぜん》を運んで来たお時を驚ろかして、すぐ立ち上がった。
「御飯は帰ってからにするよ」
彼女は今脱いだばかりのコートをまた羽織って、門を出た。しかし電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、また小路《こうじ》の角でとまった。彼女はなぜだか病院へ行くに堪《た》えないような気がした。この様子では行ったところで、役に立たないという思慮が不意に彼女に働らきかけた。
「夫の性質では、とても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい」
彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本の宅《うち》であった。いっそ当初の計画をやめて、叔父《おじ》の所へでも行こうかと考えついた彼女は、考えつくや否や、すぐその方面に横《よこた》わる困難をも想像した。岡本へ行って相談する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかった。今まで隠していた夫婦関係の奥底を、曝《さら》け出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。叔父と叔母の前に、自分の眼が利《き》かなかった自白を綺麗《きれい》にしなければならなかった。お延はまだそれほどの恥を忍ぶまでに事件は逼《せま》っていないと考えた。復活の見込が充分立たないのに、酔興《すいきょう》で自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑《けいべつ》するところであった。
彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。彼女がこんなに迷っているとはまるで気のつかない津田は、この時|床《とこ》の上に起き上って、平気で看護婦の持って来た膳に向いつつあった。先刻《さっき》お秀から電話のかかった時、すでにお延の来訪を予想した彼は、吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべく暗《あん》に心の調子を整えていたところが、その細君は途中から
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