「清子さんが今どこにいらっしゃるか、あなた知ってらっしって」
「関の所にいるじゃありませんか」
「そりゃ不断の話よ。私《わたし》のいうのは今の事よ。今どこにいらっしゃるかっていうのよ。東京か東京でないか」
「存じません」
「あてて御覧なさい」
 津田はあてっこをしたってつまらないという風をして黙っていた。すると思いがけない場所の名前が突然夫人の口から点出された。一日がかりで東京から行かれるかなり有名なその温泉場の記憶は、津田にとってもそれほど旧《ふる》いものではなかった。急にその辺《あたり》の景色《けしき》を思い出した彼は、ただ「へええ」と云ったぎり、後をいう智恵が出なかった。
 夫人は津田のために親切な説明を加えてくれた。彼女の云うところによると、目的の人は静養のため、当分そこに逗留《とうりゅう》しているのであった。夫人は何で静養がその人に必要であるかをさえ知っていた。流産後の身体《からだ》を回復するのが主眼だと云って聴《き》かせた夫人は、津田を見て意味ありげに微笑した。津田は腹の中でほぼその微笑を解釈し得たような気がした。けれどもそんな事は、夫人にとっても彼にとっても、目前の問題ではなかった。一口の批評を加える気にもならなかった彼は、黙って夫人の聴き手になるつもりでおとなしくしていた。同時に夫人は第三の段落に飛び移った。
「あなたもいらっしゃいな」
 津田の心はこの言葉を聴く前からすでに揺《うご》いていた。しかし行こうという決心は、この言葉を聴いた後《あと》でもつかなかった。夫人は一煽《ひとあお》りに煽った。
「いらっしゃいよ。行ったって誰の迷惑になる事でもないじゃありませんか。行って澄ましていればそれまででしょう」
「それはそうです」
「あなたはあなたで始めっから独立なんだから構った事はないのよ。遠慮だの気兼《きがね》だのって、なまじ余計なものを荷にし出すと、事が面倒になるだけですわ。それにあなたの病気には、ここを出た後で、ああいう所へちょっと行って来る方がいいんです。私に云わせれば、病気の方だけでも行く必要は充分あると思うんです。だから是非いらっしゃい。行って天然自然来たような顔をして澄ましているんです。そうして男らしく未練の片《かた》をつけて来るんです」
 夫人は旅費さえ出してやると云って津田を促《うな》がした。

        百四十一

 旅費を貰《もら》って、勤向《つとめむき》の都合をつけて貰って、病後の身体を心持の好い温泉場で静養するのは、誰にとっても望ましい事に違なかった。ことに自己の快楽を人間の主題にして生活しようとする津田には滅多《めった》にない誂《あつら》え向《む》きの機会であった。彼に云わせると、見す見すそれを取《と》り外《はず》すのは愚《ぐ》の極であった。しかしこの場合に附帯している一種の条件はけっして尋常のものではなかった。彼は顧慮した。
 彼を引きとめる心理作用の性質は一目暸然《いちもくりょうぜん》であった。けれども彼はその働きの顕著な力に気がついているだけで、その意味を返照《へんしょう》する遑《いとま》がなかった。この点においても夫人の方が、彼自身よりもかえってしっかりした心理の観察者であった。二つ返事で断行を誓うと思った津田のどこか渋っている様子を見た夫人はこう云った。
「あなたは内心行きたがってるくせに、もじもじしていらっしゃるのね。それが私《わたし》に云わせると、男らしくないあなたの一番悪いところなんですよ」
 男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答えた。
「そうかも知れませんけれども、少し考えて見ないと……」
「その考える癖があなたの人格に祟《たた》って来るんです」
 津田は「へえ?」と云って驚ろいた。夫人は澄ましたものであった。
「女は考えやしませんよ。そんな時に」
「じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか」
 この答えを聴《き》いた時、夫人の態度が急に嶮《けわ》しくなった。
「そんな生意気《なまいき》な口応《くちごた》えをするもんじゃありません。言葉だけで他《ひと》をやり込《こ》めればどこがどうしたというんです、馬鹿らしい。あなたは学校へ行ったり学問をしたりした方《かた》のくせに、まるで自分が見えないんだからお気の毒よ。だから畢竟《ひっきょう》清子さんに逃げられちまったんです」
 津田はまた「えッ?」と云った。夫人は構わなかった。
「あなたに分らなければ、私が云って聴《き》かせて上げます。あなたがなぜ行きたがらないか、私にはちゃんと分ってるんです。あなたは臆病なんです。清子さんの前へ出られないんです」
「そうじゃありません。私は……」
「お待ちなさい。――あなたは勇気はあるという気なんでしょう。しかし出るのは見識《けんしき》に拘《かか》わるというんでしょう。私
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