た。夫人はまた事もなげに笑った。
「なに構わないのよ。万一全く気がつかずにいるようなら、その時はまたその時でこっちにいくらでも手があるんだから」
津田は黙ってその後《あと》を待った。すると後は出ずに、急に清子の方へ話が逆転して来た。
「あなたは清子さんにまだ未練がおありでしょう」
「ありません」
「ちっとも?」
「ちっともありません」
「それが男の嘘《うそ》というものです」
嘘を云うつもりでもなかった津田は、全然本当を云っているのでもないという事に気がついた。
「これでも未練があるように見えますか」
「そりゃ見えないわ、あなた」
「じゃどうしてそう鑑定なさるんです」
「だからよ。見えないからそう鑑定するのよ」
夫人の論議《ロジック》は普通のそれとまるで反対であった。と云って、支離滅裂はどこにも含まれていなかった。彼女は得意にそれを引き延ばした。
「ほかの人には外側も内側も同《おん》なじとしか見えないでしょう。しかし私《わたし》には外側へ出られないから、仕方なしに未練が内へ引込《ひっこ》んでいるとしか考えられませんもの」
「奥さんは初手《しょて》から私に未練があるものとして、きめてかかっていらっしゃるから、そうおっしゃるんでしょう」
「きめてかかるのにどこに無理がありますか」
「そう勝手に認定されてしまっちゃたまりません」
「私がいつ勝手に認定しました。私のは認定じゃありませんよ。事実ですよ。あなたと私だけに知れている事実を云うのですよ。事実ですもの、それをちゃんと知ってる私に隠せる訳がないじゃありませんか、いくらほかの人を騙《だま》す事ができたって。それもあなただけの事実ならまだしも、二人に共通な事実なんだから、両方で相談の上、どこかへ埋《う》めちまわないうちは、記憶のある限り、消えっこないでしょう」
「じゃ相談ずくでここで埋めちゃどうです」
「なぜ埋めるんです。埋める必要がどこかにあるんですか。それよりなぜそれを活《い》かして使わないんです」
「活かして使う? 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません」
「罪悪とは何です。そんな手荒《てあら》な事をしろと私がいつ云いました」
「しかし……」
「あなたはまだ私の云う事をしまいまで聴かないじゃありませんか」
津田の眼は好奇心をもって輝やいた。
百三十九
夫人はもう未練のある証拠を眼の前に突きつけて津田を抑《おさ》えたと同じ事であった。自白後に等しい彼の態度は二人の仕合《しあい》に一段落をつけたように夫人を強くした。けれども彼女は津田が最初に考えたほどこの点において独断的な暴君ではなかった。彼女は思ったより細緻《さいち》な注意を払って、津田の心理状態を観察しているらしかった。彼女はその実券《じっけん》を、いったん勝った後《あと》で彼に示した。
「ただ未練未練って、雲を掴《つか》むような騒ぎをやるんじゃありませんよ。私《わたし》には私でまたちゃんと握ってるところがあるんですからね。これでもあなたの未練をこんなものだといって他《ひと》に説明する事ができるつもりでいるんですよ」
津田には何が何だかさっぱり訳が解らなかった。
「ちょっと説明して見て下さいませんか」
「お望みなら説明してもよござんす。けれどもそうするとつまりあなたを説明する事になるんですよ」
「ええ構いません」
夫人は笑い出した。
「そう他の云う事が通じなくっちゃ困るのね。現在自分がちゃんとそこに控えていながら、その自分が解らないで、他に説明して貰《もら》うなんてえのは馬鹿気《ばかげ》ているじゃありませんか」
はたして夫人の云う通りなら馬鹿気ているに違なかった。津田は首を傾けた。
「しかし解りませんよ」
「いいえ解ってるのよ」
「じゃ気がつかないんでしょう」
「いいえ気もついているのよ」
「じゃどうしたんでしょう。――つまり私が隠している事にでも帰着するんですか」
「まあそうよ」
津田は投げ出した。ここまで追いつめられながら、まだ隠し立《だて》をしようとはさすがの自分にも道理と思えなかった。
「馬鹿でも仕方がありません。馬鹿の非難は甘んじて受けますから、どうぞ説明して下さい」
夫人は微《かす》かに溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「ああああ張合《はりあい》がないのね、それじゃ。せっかく私が丹精《たんせい》して拵《こしら》えて来て上げたのに、肝心《かんじん》のあなたがそれじゃ、まるで無駄骨《むだぼね》を折ったと同然ね。いっそ何にも話さずに帰ろうか知ら」
津田は迷宮《メーズ》に引き込まれるだけであった。引き込まれると知りながら、彼は夫人の後を追《おっ》かけなければならなかった。そこには自分の好奇心が強く働いた。夫人に対する義理と気兼《きがね》も、けっして軽い因子ではなかった。彼は何度
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