を聴こうとすれば、夫人の認定を一から十まで承知するよりほかに仕方がなかった。夫人は「それ御覧なさい」と津田をやりこめた後で歩を進めた。
「あなたにはてんから誤解があるのよ。あなたは私《わたし》を良人《うち》といっしょに見ているんでしょう。それから良人と岡本をまたいっしょに見ているんでしょう。それが大間違よ。岡本と良人をいっしょに見るのはまだしも、私を良人や岡本といっしょにするのはおかしいじゃありませんか、この事件について。学問をした方にも似合わないのねあなたも、そんなところへ行くと」
 津田はようやく夫人の立場を知る事ができた。しかしその立場の位置及びそれが自分に対してどんな関係になっているのかまだ解らなかった。夫人は云った。
「解り切ってるじゃありませんか。私だけはあなたと特別の関係があるんですもの」
 特別の関係という言葉のうちに、どんな内容が盛られているか、津田にはよく解った。しかしそれは目下の問題ではなかった。なぜと云えば、その特別な関係をよく呑《の》み込んでいればこそ、今日《こんにち》までの自分の行動にも、それ相当な一種の色と調子を与えて来たつもりだと彼は信じていたのだから。この特別な関係が夫人をどう支配しているか、そこをもっと明らかに突きとめたところに、新らしい問題は始めて起るのだと気がついた彼は、ただ自分の誤解を認めるだけではすまされなかった。
 夫人は一口に云い払った。
「私はあなたの同情者よ」
 津田は答えた。
「それは今までついぞ疑《うたぐ》って見た例《ためし》もありません。私《わたくし》は信じ切っています。そうしてその点で深くあなたに感謝しているものです。しかしどういう意味で? どういう意味で同情者になって下さるつもりなんですか、この場合。私は迂濶《うかつ》ものだから奥さんの意味がよく呑《の》み込めません。だからもっと判然《はっき》り話して下さい」
「この場合に同情者として私《わたし》があなたにして上げる事がただ一つあると思うんです。しかしあなたは多分――」
 夫人はこれだけ云って津田の顔を見た。津田はまた焦《じ》らされるのかと思った。しかしそうでないと断言した夫人の問は急に変った。
「私の云う事を聴《き》きますか、聴きませんか」
 津田にはまだ常識が残っていた。彼はここへ押しつめられた何人《なんびと》も考えなければならない事を考えた。しかし考えた通りを夫人の前で公然明言する勇気はなかった。勢い彼の態度は煮え切らないものであった。聴くとも聴かないとも云いかねた彼は躊躇《ちゅうちょ》した。
「まあ云って見て下さい」
「まあじゃいけません。あなたがもっと判切《はっきり》しなくっちゃ、私だって云う気にはなれません」
「だけれども――」
「だけれどもでも駄目《だめ》よ。聴きますと男らしく云わなくっちゃ」

        百三十七

 どんな注文が夫人の口から出るか見当《けんとう》のつかない津田は、ひそかに恐れた。受け合った後で撤回しなければならないような窮地に陥《おち》いればそれぎりであった。彼はその場合の夫人を想像してみた。地位から云っても、性質から見ても、また彼に対する特別な関係から判断しても、夫人はけっして彼を赦《ゆる》す人ではなかった。永久夫人の前に赦《ゆる》されない彼は、あたかも蘇生の活手段を奪われた仮死の形骸《けいがい》と一般であった。用心深い彼は生還の望《のぞみ》の確《しか》としない危地に入り込む勇気をもたなかった。
 その上普通の人と違って夫人はどんな難題を持ち出すか解らなかった。自由の利き過ぎる境遇、そこに長く住み馴《な》れた彼女の眼には、ほとんど自分の無理というものが映らなかった。云えばたいていの事は通った。たまに通らなければ、意地で通すだけであった。ことに困るのは、自分の動機を明暸《めいりょう》に解剖して見る必要に逼《せま》られない彼女の余裕であった。余裕というよりもむしろ放慢な心の持方であった。他《ひと》の世話を焼く時にする自分の行動は、すべて親切と好意の発現で、そのほかに何の私《わたくし》もないものと、てんからきめてかかる彼女に、不安の来《く》るはずはなかった。自分の批判はほとんど当初から働らかないし、他《ひと》の批判は耳へ入らず、また耳へ入れようとするものもないとなると、ここへ落ちて来るのは自然の結果でもあった。
 夫人の前に押しつめられた時、津田の胸に、これだけの考えが蜿蜒《うねく》り廻ったので、埒《らち》はますます開《あ》かなかった。彼の様子を見た夫人は、ついに笑い出した。
「何をそんなにむずかしく考えてるんです。おおかた私《わたし》がまた無理でも云い出すんだと思ってるんでしょう。なんぼ私だってあなたにできっこないような不法は考えやしませんよ。あなたがやろうとさえ思えば、訳なくで
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