かった。この好成蹟《こうせいせき》がますます彼を楽天的にした。誰からでも好かれているという自信をもった彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。そうしてそれは間違でも何でもなかった。実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。
器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。放蕩《ほうとう》の酒で臓腑《ぞうふ》を洗濯されたような彼の趣《おもむき》もようやく解する事ができた。こんなに拘泥《こうでい》の少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目《まじめ》に云い出したものだろうかという不審さえ、すぐうやむやのうちに葬られてしまった。お延ほど根強くない彼女は、その意味を覚《さと》る前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上に注《そそ》がなければならなくなった。
お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。お延の新世帯《しんしょたい》が夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。弟も妹も同居していた。親類の厄介者までいた。自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。中でも母には、他《ひと》の知らない気苦労をしなければならなかった。
器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまで経《た》っても若かった。一つ年下のお延に比べて見てもやっぱり若かった。四歳《よっつ》の子持とはどうしても考えられないくらいであった。けれどもお延と違った家庭の事情の下《もと》に、過去の四五年を費やして来た彼女は、どこかにまたお延と違った心得をもっていた。お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、たしかにお延よりも老《ふ》けていた。言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。いわば、早く世帯染《しょたいじ》みたのである。
こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる父母《ちちはは》の味方にしたがった。彼女はそれでもなるべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。ことに嫂《あによめ》に気下味《きまず》い事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生から慎《つつ》しんでいた。しかし腹の中はむしろ反対であった。何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げかけていた。兄がもしあれほど派手好《はでず》きな女と結婚しなかったならばという気が、始終《しじゅう》胸の底にあった。そうしてそれは身贔負《みびいき》に過ぎない、お延に気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。
お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。兄夫婦から煙《けむ》たがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。第一には二人が厭《いや》がるからなお改めないのであった。自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭がられても兄のためだと思えば構わないという主張であった。第三は単に派手好なお延が嫌《きらい》だという一点に纏《まと》められてしまわなければならなかった。お延より余裕のある、またお延より贅沢《ぜいたく》のできる彼女にして、その点では自分以下のお延がなぜ気に喰わないのだろうか。それはお秀にとって何の問題にもならなかった。ただしお秀には姑《しゅうと》があった。そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。しかしお秀はこの問題に関聯《かんれん》してこの相違すら考えなかった。
お秀がお延から津田の消息を電話で訊《き》かされて、その翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、ちょうど小林が外套《がいとう》を受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。
九十二
前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた膳《ぜん》にちょっと手を出したぎり、また仰向《あおむけ》になって、昨夕《ゆうべ》の不足を取り返すために、重たい眼を閉《つぶ》っていた。お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態に入《い》りかけた間際《まぎわ》だったので、彼は襖《ふすま》の音ですぐ眼を覚《さ》ました。そうして病人に斟酌《しんしゃく》を加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
こういう場合に彼らはけっして愛嬌《あいきょう》を売り合わなかった。嬉《うれ》しそうな表情も見せ合わなかった。彼
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