に着いただけであった。
 お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。しかしお延が一膳で箸《はし》を置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」と訊《き》いた。そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。
「どうもすみませんでした」
 彼女は自分の専断で病院へ行った詫《わび》を述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。
「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」
「いいえ」
 お延は疑《うたぐ》りの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ云った。
「あのお客さまは、ずいぶん――」
 しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。二人の談話はこれが緒口《いとくち》で先へ進んだ。
「旦那様《だんなさま》は驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどい奴《やつ》だって。こっちから取りに来いとも何とも云わないのに、断りもなく奥様と直談判《じきだんぱん》を始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」
 お延は軽蔑《さげす》んだ笑いを微《かす》かに洩《も》らした。しかし自分の批評は加えなかった。
「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」
「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊《おき》きになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変|厭《いや》な顔をなさいました」
「そうかい。それぎりかい」
「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
「それでお前は何とお答えをしたの」
「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」
「そうしたら」
「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」
「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお召換《めしかえ》をしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」
「そう。そうしたら」
「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、冷評《ひや》かされました」
 お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」
「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、他《ひと》の家《うち》へお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」
「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」
「ええ」
 お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」
「なんと」
「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんな嘘《うそ》だと思っていれば間違はないんだからって」
「そう」
 お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまも傍《そば》で笑っていらっしゃいました」
 お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。

        九十一

 お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男はすでに四年前に生れていた。単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び醒《さ》ますには充分であった。彼女の心は四年以来いつでも母であった。母でない日はただの一日もなかった。
 彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに可愛《かわい》がりもしない。これが彼のお秀に対する態度であった。彼はそれを得意にしていた。道楽の修業を積んで始めてそういう境界《きょうがい》に達せられるもののように考えていた。人世観という厳《いか》めしい名をつけて然《しか》るべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生温《なまぬる》く触れて行く事であった。微笑して過ぎる事であった。何《なん》にも執着しない事であった。呑気《のんき》に、ずぼらに、淡泊《たんぱく》に、鷹揚《おうよう》に、善良に、世の中を歩いて行く事であった。それが彼のいわゆる通《つう》であった。金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。またどこへ行っても不足を感じな
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