あった。帰りに吉川の私宅《うち》へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅《うち》まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門を潜《くぐ》る必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」
 彼は時々こういう事実を背中に背負《しょ》って見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自《みずか》ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫《ごう》も崩《くず》さずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他《ひと》に見せたがるのと同じような心理作用の下《もと》に、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽《あ》くまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。

        十

 厳《いか》めしい表玄関の戸はいつもの通り締《し》まっていた。津田はその上半部《じょうはんぶ》に透《すか》し彫《ぼり》のように篏《は》め込《こ》まれた厚い格子《こうし》の中を何気なく覗《のぞ》いた。中には大きな花崗石《みかげいし》の沓脱《くつぬぎ》が静かに横たわっていた。それから天井《てんじょう》の真中から蒼黒《あおぐろ》い色をした鋳物《いもの》の電灯笠《でんとうがさ》が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例《ためし》のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍《そば》にある内玄関《ないげんかん》から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
 小倉《こくら》の袴《はかま》を着けて彼の前に膝《ひざ》をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑《の》み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊《き》いた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭《いや》な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆《たばこぼん》も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
 津田の挨拶《あいさつ》に軽い会釈《えしゃく》をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊《き》いた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅《うち》へいらっしゃらなくなったようね」
 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下《としした》の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下《めした》の男であった。
「まだ嬉《うれ》しいんでしょう」
 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳《はんとし》と少しになります」
「早いものね、ついこの間《あいだ》だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉《うれ》しいところは通り越しちまったの。嘘《うそ》をおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊《さっぱり》とおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定《かんじょう》です」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」

        十一

 吉川の細君はこんな調子でよく津田に調
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