った。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切《とぎ》らした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別《ふんべつ》も出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
 お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
 彼女は金《きん》の入った厚い帯の端《はじ》を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳《かざ》した。津田にはその意味がちょっと呑《の》み込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
 津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段《さんだん》を、嫁に来たての若い細君が、疾《と》くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
 お延は笑いながら、軽蔑《さげす》むような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
 津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑《げび》た真似《まね》をさせたくなかった。お延は弁解した。
「時《とき》が知ってるのよ。あの婢《おんな》は宅《うち》にいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書《はがき》さえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」
 細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉《うれ》しい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜《ほこ》りを傷《きずつ》けるという意味において彼は躊躇《ちゅうちょ》した。
「まあよく考えて見よう」
 彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上《あが》って行った。

        九

 翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段《はしごだん》の途中で吉川に出会った。しかし彼は下《くだ》りがけ、向《むこう》は上《のぼ》りがけだったので、擦《す》れ違《ちがい》に叮嚀《ていねい》な御辞儀《おじぎ》をしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯《ひるめし》に間もないという頃、彼はそっと吉川の室《へや》の戸を敲《たた》いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草《たばこ》を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
 津田は固《もと》より表向の用事で、この室へ始終《しじゅう》出入《しゅつにゅう》すべき人ではなかった。跋《ばつ》の悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」
「そんなら後《あと》にしてくれたまえ。今少し差支《さしつか》えるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
 音のしないように戸を締《し》めた津田はまた自分の机の前に帰った。
 午後になってから彼は二返《にへん》ばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
 津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使《きゅうじ》に訊《き》いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻《さっき》御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
 毎日人の出入《でいり》の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴《つ》れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執《と》った。
 時間になった時、彼はほかの人よりも一足|後《おく》れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋《ポッケット》から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためで
前へ 次へ
全187ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング