た反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」
 親身《しんみ》の叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目《まじめ》になった。
「それでどうしたの」
「それでこうなんだ。男と女は始終《しじゅう》引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしても充《み》たす訳に行かないんだ」
 お延の興味は急に退《ひ》きかけた。叔父の云う事は、自分の疾《と》うに知っている事実に過ぎなかった。
「昔から陰陽和合《いんようわごう》っていうじゃありませんか」
「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」
「どうして」
「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」
「ええ」
「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」
「ええ」
「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」
 叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。
「だけどそりゃ理窟《りくつ》よ」
「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」
「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟《へりくつ》よ」
 お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのは厭《いや》であった。

        七十六

 叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
 男が女を得て成仏《じょうぶつ》する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度《ひとたび》夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪《にく》くなる。今までの牽引力《けんいんりょく》がたちまち反撥性《はんぱつせい》に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺《ことわざ》を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙《あ》げるのは、やがて来《きた》るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……
 叔父の言葉のどこまでが藤井の受売《うけうり》で、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目《まじめ》で、どこからが笑談《じょうだん》なのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つ術《すべ》を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒《しんぼう》があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、膏《あぶら》が乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」
「口じゃとても敵《かな》いっこないからお止《よ》しよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」
「ええ、わざわざ陰陽不和を醸《かも》すように仕向けるのね」
 お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切《とぎ》れるのを待って、徐《おもむ》ろに宣告を下した。
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで宜《よろ》しい。敗《ま》けたものを追窮《ついきゅう》はしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐《あわ》れむという美点があるんだからな、こう見えても」
 彼はさも勝利者らしい顔を粧《よそお》って立ち上がった。障子《しょうじ》を開けて室《へや》の外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。
「おいお延好いものを持って来た。お前|明日《あした》にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」
「何よ」
 お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は拾《ひろ》い読《よみ》にぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……
「へええ」
「みんな滑稽《こっけい》なもんだ。洒落《しゃれ》だとか、謎《なぞ》だとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩が凝《こ》らなくってね」
「なるほど叔父さん向《むき》のものね」
「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支《さしつか》えあるまい。いくら
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