んだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、同《おん》なじ事です」
こんな他愛《たわい》もない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当の分前《わけまえ》を取る事ができなかった。自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまで経《た》っても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。そうして特に自分の一軒《いっけん》置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこの従妹《いとこ》を、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力の迹《あと》さえありありと見えた。それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外部《そと》に示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望《せんぼう》の漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《さざなみ》が立った。
「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」
会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてその後《あと》から暗《あん》に人馴《ひとな》れない継子を憐《あわ》れんだ。最後には何という気の毒な女だろうという軽侮《けいぶ》の念が例《いつ》もの通り起った。
五十五
彼らの席を立ったのは、男達の燻《くゆ》らし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くも溜《たま》った頃であった。その時誰かの口から出た「もう何時《なんじ》だろう」というきっかけが、偶然お延の位地に変化を与えた。立ち上る前の一瞬間を捉《とら》えた夫人は突然お延に話しかけた。
「延子さん。津田さんはどうなすって」
いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその後《あと》を自分で云い足した。
「先刻《さっき》から伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」
この云訳《いいわけ》をお延は腹の中で嘘《うそ》らしいと考えた。それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深い根拠《こんきょ》のある推定であった。彼女は食堂へ這入《はい》って夫人に挨拶《あいさつ》をした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。彼女はこの夫人を見るや否や、恭《うやうや》しく頭を下げて、「毎度津田が御厄介《ごやっかい》になりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田については一言《ひとこと》も口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。そうして二三日前《にさんちまえ》津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。
お延は夫人のこの挙動を、自分が嫌《きら》われているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振《そぶり》を、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。しかし単に夫を贔負《ひいき》にしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目として憚《はば》かられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然|他《ひと》に好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一《ゆいいつ》の共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸に痞《つか》えていたからであった。それをいよいよ席を立とうとする間際《まぎわ》になって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、嘘《うそ》らしいという疑を抱《いだ》くだけではすまなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。
「ありがとうございます。お蔭《かげ》さまで」
「もう手術をなすったの」
「ええ今日《こんち》」
「今日《きょう》? それであなたよくこんな所へ来られましたね」
「大した病気でもございませんものですから」
「でも寝ていらっしゃるんでしょう」
「寝てはおります」
夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。他《ひと》に対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。
「病院へ御入《おはい》りになって」
「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階が空《あ》いておるので、五六日《ごろくんち》そこへおいていただく事にしてお
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