かずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」
「じゃ始終《しじゅう》その子の傍《そば》に坐っていらっしったら好いでしょう」
叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と訊《き》いた。叔母がそんな呑気《のんき》な人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。
「今度はお爺《じい》さまお爺さまって云われる時機が、もう眼前《がんぜん》に逼《せま》って来たんだ。油断はできません」
継子が顔を赧《あか》くして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。
「でも岡本さんにゃ自分の年歯《とし》を計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たら何《なん》にも反省器械《はんせいきかい》を持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」
「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」
みんなが声を出して笑った。
五十四
彼らほど多人数《たにんず》でない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群《いちぐん》を折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲《コヒー》も飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼らは中途で拭布《ナプキン》を放《ほう》り出《だ》す訳に行かなかった。またそんな世話しない真似《まね》をする気もないらしかった。芝居を観《み》に来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。
「もう始まったのかい」
急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイに訊《き》いた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧《ていねい》に答えた。
「ただ今|開《あ》きました」
「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」
叔父はすぐ皮付の鶏《とり》の股《もも》を攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着《とんじゃく》しないらしかった。彼はすぐ叔父の後《あと》へついて、劇とは全く無関係な食物《くいもの》の挨拶《あいさつ》をした。
「君は相変らず旨《うま》そうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車《かたぐるま》へ乗った話をお聞きですか」
叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり外聞《がいぶん》の好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」
「何が?」
叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が傍《そば》から口を出した。
「おおかた重過ぎてその外国人を潰《つぶ》したんでしょう」
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦《ロンドン》の群衆の中で、大男の肩の上へ噛《かじ》りついていたんだ。行列を見るためにね」
叔父《おじ》はまだ笑いもしなかった。
「何を捏造《ねつぞう》する事やら。いったいそりゃいつの話だね」
「エドワード七世の戴冠式《たいかんしき》の時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈《せい》が高過ぎるもんだから、苦し紛《まぎ》れにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」
「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
叔父の弁解はむしろ真面目《まじめ》であった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人《イギリスじん》が大きいたって、どうも君じゃ辻褄《つじつま》が合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小《わいしょう》だからな」
知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと腑《ふ》に落ちたらしい言葉遣《ことばづか》いをして、なおその当人の猿という渾名《あざな》を、一座を賑《にぎ》わせる滑稽《こっけい》の余音《よいん》のごとく繰《く》り返《かえ》した。夫人は半《なか》ば好奇的で、半ば戒飭的《かいちょくてき》な態度を取った。
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏《ひょうり》なく彼を猿々と呼び得る人間な
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