ちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜《さくそう》した、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間《すきま》から遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入《しゅつにゅう》したがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇《くらやみ》を通り抜けて、急に明海《あかるみ》へ出た人のように眼を覚《さ》ました。そうしてこの氛囲気《ふんいき》の片隅《かたすみ》に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作《きょしどうさ》共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。
 席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子《つぎこ》は、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣《きづか》うように、後《うしろ》を向いて筋違《すじかい》に身体《からだ》を延ばしながらお延に訊《き》いた。
「見えて? 少しここと換《かわ》ってあげましょうか」
「ありがとう。ここでたくさん」
 お延は首を振って見せた。
 お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子《ゆりこ》は左利《ひだりきき》なので、左の手に軽い小さな象牙製《ぞうげせい》の双眼鏡を持ったまま、その肱《ひじ》を、赤い布《きれ》で裹《つつ》んだ手摺《てすり》の上に載《の》せながら、後《うしろ》をふり返った。
「遅かったのね。あたし宅《うち》の方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」
 年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶《あいさつ》かたがたお延に何か云うほどの智慧《ちえ》をもたなかった。
「御用があったの?」
「ええ」
 お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻《さっき》から姉妹《きょうだい》の母親が傍目《わきめ》もふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木《ひょうしぎ》の鳴るまでついに一言《ひとこと》も口を利《き》かなかった。

        四十六

「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻《さっき》継《つぎ》と話してたの」
 幕が引かれてから、始めてうち寛《くつ》ろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
 誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその後《あと》を云い足した。
「あたしお母さまと賭《かけ》をしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」
「そう。また御神籤《おみくじ》を引いて」
 継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書《てんしょ》の金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙《ぞうげ》を平たく削《けず》った精巧の番号札が数通《かずどお》り百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入《こようじいれ》を取り扱うような手つきで、短冊形《たんざくがた》の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入《もんくいり》の折手本《おりでほん》を繰《く》りひろげて見た。そうしてそこに書いてある蠅《はえ》の頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重《はぶたえ》の裏をつけた更紗《さらさ》の袋から取り出して、もったいらしくその上へ翳《かざ》したりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具《おもちゃ》としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的《ゆうぎてき》に着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時として帙《ちつ》入のままそれを机の上から取って帯の間に挟《はさ》んで外出する事さえあった。
「今日も持って来たの?」
 お延は調戯半分《からかいはんぶん》彼女に訊《き》いて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母が傍《そば》から彼女に代って返事をするごとくに云った。
「今日の予言はお神籤《みくじ》じゃないのよ。お神籤よりもっと偉《えら》い予言なの」
「そう」
 お延は後が聞きたそうにして、母子《おや
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