だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
不幸にして津田にはその変なところが明暸《めいりょう》に云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関《かか》わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つの我《が》が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
お延は微《かす》かな溜息《ためいき》を洩《も》らしてそっと立ち上った。いったん閉《た》て切《き》った障子《しょうじ》をまた開けて、南向の縁側《えんがわ》へ出た彼女は、手摺《てすり》の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干《ものほし》に隙間《すきま》なく吊《つる》されたワイ襯衣《シャツ》だのシーツだのが、先刻《さっき》見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
お延が小さな声で独《ひと》りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然|籠《かご》の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍《そば》に縛《しば》りつけておくのが少し可哀相《かわいそう》になった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂《つぎほ》のないのに困った。お延も欄干《らんかん》に身を倚《よ》せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上《あが》って来た。
「どうもお待遠さま」
津田の膳《ぜん》には二個の鶏卵《けいらん》と一合のソップと麺麭《パン》がついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
津田は床の上に腹這《はらばい》になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」
お延はすぐ肉匙《フォーク》の手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止《よ》せとおっしゃれば止すわ」
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊《き》いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返《いっぺん》断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日の午《ひる》までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
二人はこういう会話と共に午飯《ひるめし》を済ました。
四十五
手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ後《おく》らせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口《ひとくち》劇場の名を云ったなり、すぐ俥《くるま》に乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。
小路《こうじ》を出た護謨輪《ゴムわ》は電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただ賑《にぎ》やかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方《かけかた》が、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体《からだ》が浮《うわ》つきながら早く揺《うご》くと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後に紛《ふん》として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。
車上の彼女は宅《うち》の事を考える暇がなかった。機嫌《きげん》よく病院の二階へ寝かして来た津田の影像《イメジ》が、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支《さしつか》えないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好《しこう》を始めからもっていない彼女は、時間が後《おく》れたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟《しげき》であると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。
俥は茶屋の前でとまった。挨拶《あいさつ》をする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯《ちょうちん》だの暖簾《のれん》だの、紅白の造り花などが
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