れで行くのが厭《いや》になった訳でもあるまい」
「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」
 津田は小首を傾けた。叔父《おじ》が子供を岡本へやりたがらない理由《わけ》は何だろうと考えた。肌合《はだあい》の相違、家風の相違、生活の相違、それらのものがすぐ彼の心に浮かんだ。始終《しじゅう》机に向って沈黙の間に活字的の気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《きえん》を天下に散布している叔父は、実際の世間においてけっして筆ほどの有力者ではなかった。彼は暗《あん》にその距離を自覚していた。その自覚はまた彼を多少|頑固《かたくな》にした。幾分か排外的にもした。金力権力本位の社会に出て、他《ひと》から馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領を一分《いちぶ》でも冒されては大変だという警戒の念が絶えずどこかに働いているらしく見えた。
「真事なぜお父さんに訊《き》いて見なかったのだい。岡本へ行っちゃなぜいけないんですって」
「僕|訊《き》いたよ」
「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」
「ううん、云った」
「何と云った」
 真事は少し羞恥《はにか》んでいた。しばらくしてから、彼はぽつりぽつり句切《くぎり》を置くような重い口調《くちょう》で答えた。
「あのね、岡本へ行くとね、何でも一《はじめ》さんの持ってるものをね、宅《うち》へ帰って来てからね、買ってくれ、買ってくれっていうから、それでいけないって」
 津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人の活計向《くらしむき》は、彼らの子供が持つ玩具《おもちゃ》の末に至るまでに、多少等差をつけさせなければならなかったのである。
「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかり強請《ねだる》んだな。みんな一《はじめ》さんの持ってるのを見て来たんだろう」
 津田は揶揄《からか》い半分手を挙《あ》げて真事の背中を打とうとした。真事は跋《ばつ》の悪い真相を曝露《ばくろ》された大人《おとな》に近い表情をした。けれども大人のように言訳がましい事はまるで云わなかった。
「嘘《うそ》だよ。嘘だよ」
 彼は先刻《さっき》津田に買ってもらった一円五十銭の空気銃を担《かつ》いだままどんどん自分の宅《うち》の方へ逃げ出した。彼
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