。
「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」
清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。
「あらどうしてそんな事を御承知なの」
「ちゃんと知ってるんです」
清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして綺麗《きれい》に剥いた林檎に刃を入れながら答えた。
「なるほどあなたは天眼通《てんがんつう》でなくって天鼻通《てんびつう》ね。実際よく利《き》くのね」
冗談《じょうだん》とも諷刺《ふうし》とも真面目《まじめ》とも片のつかないこの一言《いちごん》の前に、津田は退避《たじろ》いだ。
清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。
「あなたいかが」
百八十八
津田は清子の剥《む》いてくれた林檎《りんご》に手を触れなかった。
「あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ」
「そうね、そうしてあなたがまたわざわざそれをここまで持って来て下すったんですね。その御親切に対してもいただかなくっちゃ悪いわね」
清子はこう云いながら、二人の間にある林檎の一片《ひときれ》を手に取った。しかしそれを口へ持って行く前にまた訊《き》いた。
「しかし考えるとおかしいわね、いったいどうしたんでしょう」
「何がどうしたんです」
「私吉川の奥さんにお見舞をいただこうとは思わなかったのよ。それからそのお見舞をまたあなたが持って来て下さろうとはなおさら思わなかったのよ」
津田は口のうちで「そうでしょう、僕でさえそんな事は思わなかったんだから」と云った。その顔をじっと見守った清子の眼に、判然《はっきり》した答を津田から待ち受けるような予期の光が射した。彼はその光に対する特殊な記憶を呼び起した。
「ああこの眼だっけ」
二人の間に何度も繰り返された過去の光景《シーン》が、ありありと津田の前に浮き上った。その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。だからすべての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解らない未来を挙《あ》げて、彼の上に投げかけるように見えた。したがって彼女の眼は動いても静であった。何か訊《き》こうとするうちに、信と平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権をもって生れて来たような気がした。自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。
二人はついに離
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