かげん》になって鄭寧《ていねい》に林檎《りんご》の皮を剥《む》いている清子の手先を眺めた。滴《したた》るように色づいた皮が、ナイフの刃を洩《も》れながら、ぐるぐると剥《む》けて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼《うすあお》い肉がしだいに現われて来る変化は彼に一年以上|経《た》った昔を憶《おも》い起させた。
「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう林檎《りんご》を剥《む》いてくれたんだっけ」
ナイフの持ち方、指の運び方、両肘《りょうひじ》を膝《ひざ》とすれすれにして、長い袂《たもと》を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。それは彼女の指を飾る美くしい二個《ふたつ》の宝石であった。もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮《さえ》ぎるものはなかった。柔婉《しなやか》に動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然《さんぜん》たる警戒の閃《ひら》めきを認めなければならなかった。
彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。しかし今朝《けさ》下女が結《い》ってやったというその髪は通例の庇《ひさし》であった。何の奇も認められない黒い光沢《つや》が、櫛《くし》の歯を入れた痕《あと》を、行儀正しく竪《たて》に残しているだけであった。
津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。
「それで僕の訊《き》きたいのはですね――」
清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。
「昨夕《ゆうべ》そんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」
清子は俯向《うつむ》いたまま答えた。
「なぜ」
「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」
清子はやっぱり津田を見ずに答えた。
「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」
「説明はそれだけなんですか」
「ええそれだけよ」
もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息《ためいき》を吐《つ》くところであった。けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑《おさ》えつけた
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