えた。
「これじゃ空々《そらぞら》しくっていけない、昨夜《ゆうべ》会った事も何とか書かなくっちゃ」
しかし当《あた》り障《さわ》りのないようにそこへ触れるのはちょっと困難であった。第一書く事が複雑になればなるほど、文字が多くなって一枚の名刺では事が足りなくなるだけであった。彼はなるべく淡泊《あっさり》した口上を伝えたかった。したがって小面倒な封書などは使いたくなかった。
思いついたように違《ちが》い棚《だな》の上を眺めた彼は、まだ手をつけなかった吉川夫人の贈物が、昨日《きのう》のままでちゃんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸《おろ》した。彼は果物籃《くだものかご》の葢《ふた》の間へ、「御病気はいかがですか。これは吉川の奥さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿《さ》し込んだ後《あと》で、下女を呼んだ。
「宅《うち》に関さんという方がおいでだろう」
今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。
「関さんが先刻《さっき》お話した奥さんの事ですよ」
「そうか。じゃその奥さんでいいから、これを持って行って上げてくれ。そうしてね、もしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって」
「へえ」
下女はすぐ果物籃を提《さ》げて廊下へ出た。
百八十二
返事を待ち受ける間の津田は居据《いすわ》りの悪い置物のように落ちつかなかった。ことにすぐ帰って来《く》べきはずの下女が思った通りすぐ帰って来ないので、彼はなおの事心を遣《つか》った。
「まさか断るんじゃあるまいな」
彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、清子の束縛を解《と》く好い方便に違《ちがい》なかった。単に彼と応接する煩《わずら》わしさ、もしくはそれから起り得る嫌疑《けんぎ》を避けようとするのが彼女の当体《とうたい》であったにしたところで、果物籃《くだものかご》の礼はそれを持って来た本人に会って云うのが、順であった。誰がどう考えても無理のない名案を工夫したと信ずるだけに、下女の遅いのを一層|苦《く》にしなければならなかった彼は、ふかしかけた煙草《たばこ》を捨てて、縁側へ出たり、何のためとも知れず、黙って池の中を動いている緋鯉《ひごい》を眺めたり、そこへしゃがんで、軒下に寝ている犬の鼻面《はなづら》へ手を延ばし
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