の傍《かたわら》に立った。彼らの到着は急であった。けれども騒々しくはなかった。眼界を遮《さえ》ぎる靄《もや》が、風の音も立てずにすうと晴れ渡る間から、彼は自分の視野を着実に見る事ができたのである。
 思いのほかに浪漫的《ロマンチック》であった津田は、また思いのほかに着実であった。そうして彼はその両面の対照に気がついていなかった。だから自己の矛盾を苦《く》にする必要はなかった。彼はただ決すればよかった。しかし決するまでには胸の中で一戦争しなければならなかった。――馬鹿になっても構わない、いや馬鹿になるのは厭《いや》だ、そうだ馬鹿になるはずがない。――戦争でいったん片づいたものが、またこういう風に三段となって、最後まで落ちて来た時、彼は始めて立ち上れるのである。
 人のいない大きな浴槽《よくそう》のなかで、洗うとも摩《こす》るとも片のつかない手を動かして、彼はしきりに綺麗《きれい》な温泉《ゆ》をざぶざぶ使った。

        百七十四

 その時不意にがらがらと開けられた硝子戸《ガラスど》の音が、周囲《あたり》をまるで忘れて、自分の中にばかり頭を突込《つっこ》んでいた津田をはっと驚ろかした。彼は思わず首を上げて入口を見た。そうしてそこに半身を現わしかけた婦人の姿を湯気のうちに認めた時、彼の心臓は、合図の警鐘のように、どきんと打った。けれども瞬間に起った彼の予感は、また瞬間に消える事ができた。それは本当の意味で彼を驚ろかせに来た人ではなかった。
 生れてからまだ一度も顔を合せた覚《おぼえ》のないその婦人は、寝掛《ねがけ》と見えて、白昼なら人前を憚《はば》かるような慎《つつ》しみの足りない姿を津田の前に露《あら》わした。尋常の場合では小袖《こそで》の裾《すそ》の先にさえ出る事を許されない、長い襦袢《じゅばん》の派手《はで》な色が、惜気《おしげ》もなく津田の眼をはなやかに照した。
 婦人は温泉煙《ゆけむり》の中に乞食《こじき》のごとく蹲踞《うずくま》る津田の裸体姿《はだかすがた》を一目見るや否や、いったん入りかけた身体《からだ》をすぐ後《あと》へ引いた。
「おや、失礼」
 津田は自分の方で詫《あや》まるべき言葉を、相手に先へ奪《と》られたような気がした。すると階子段《はしごだん》を下りる上靴《スリッパー》の音がまた聴こえた。それが硝子戸の前でとまったかと思うと男女の会話が
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