次の日曜ぐらいに、君の家《うち》へ持って行って見せる事にしたら」
 津田は驚ろいた。
「僕に絵なんか解らないよ」
「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」
「ええ御迷惑でなければ」
 津田の迷惑は無論であった。
「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」
 青年は傷《きずつ》けられたような顔をした。小林はすぐ応援に出た。
「嘘《うそ》を云うな。君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」
 津田は苦笑せざるを得なかった。
「また下らない事を云って、――馬鹿にするな」
「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」
 津田はだんだん辛防《しんぼう》し切れなくなって来た。
「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は一足《ひとあし》先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」
 給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して止《と》めながら、また津田の方へ向き直った。
「ちょうど今一枚|素敵《すてき》に好いのが描《か》いてあるんだ。それを買おうという望手《のぞみて》の所へ価値《ねだん》の相談に行った帰りがけに、原君はここへ寄ったんだから、旨《うま》い機会じゃないか。是非買いたまえ。芸術家の足元へ付け込んで、むやみに価切《ねぎ》り倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代りきっと買手を周旋してやるから、帰りにここへ寄るがいいと、先刻《さっき》あすこの角で約束しておいたんだ、実を云うと。だから一つ買ってやるさ、訳ゃないやね」
「他《ひと》に絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか」
「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」
「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」
「馬鹿だな、君は。しまいにロハで捲《ま》き上げられてしまうだけだぜ」
 津田はこの問答を聴いてほっと一息|吐《つ》いた。

        百六十三

 二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。時々耳にする三角派《さんかくは》とか未来派《みらいは》とかいう奇怪な名称のほかに、彼は今までかつて聴《き》いた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。
前へ 次へ
全373ページ中314ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング