ねつけるとすると、あいつは怒るよ。ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。復讐《かたきうち》をやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体《せけんてい》があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵《かな》いっこないんだ。解ったかね」
ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩《くず》れてしまう。しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭《うなず》くよりほかに仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。
「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を悪口《あっこう》するだけならいいがね。あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的なんだ。まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。だから一番災難なのはこのおれだよ。どう考えてもここでおれ相当の親切を見せて、あいつの感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰《もら》うのが上策なんだ。でないといつどんな目に逢《あ》うか解ったもんじゃない」
こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。
「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに怖《こわ》がる因縁《いんねん》がないじゃありませんか」
二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。それを自分の小遣《こづかい》として、任意に自分の嗜慾《しよく》を満足するという彼女の条件は直《ただ》ちに成立した。その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。
うそ寒《さむ》の宵《よい》に、若い夫婦間に起った波瀾《はらん》の消長はこれでようやく尽きた。二人はひとまず別れた。
百五十三
津田の辛防《しんぼう》しなければならない手術後の経過は良好であった。というよりもむしろ順当に行った。五日目が来た時、医者は予定通り彼のために全部のガーゼを取り替えてくれた後で、それを保証した。
「至極《しごく》好い具合です。出血も口元だけです。内部《なか》の方は何ともありません」
六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になっていた。
「出血はどうです。まだ止《と》まりませ
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