った。平生の用心を彼から奪ったこの場合は、彼を怱卒《そそか》しくしたのみならず彼の心を一直線にしなければやまなかった。彼は手紙を持ったまま、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。
「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を宅《うち》までやって下さい」
看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、宛名《あてな》を眺めた。津田は腹の中で往復に費やす車夫の時間さえ考えた。
「電車で行くようにして下さい」
彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。
二階へ帰って来た後《あと》でも、彼はそればかりが苦《く》になった。そう思うと、お延がもう宅《うち》を出て、電車へ乗って、こっちの方角へ向いて動いて来るような気さえした。自然それといっしょに頭の中に纏付《まつわ》るのは小林であった。もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段《はしごだん》の上に、すらりとしたその姿を現わすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考えた。貴重な時間を無駄に費やさせられたあげく、頼むようにして帰って貰った彼の後姿《うしろすがた》を見送った津田は、それでももう少しで刻下《こっか》の用を弁ずるために、小林を利用するところであった。「面倒でも帰りにちょっと宅へ寄って、今日来てはいけないとお延に注意してくれ」。こういう言葉がつい口の先へ出かかったのを、彼は驚ろいて、引ッ込ましてしまったのである。もしこれが小林でなかったなら、この際どんなに都合がよかったろうにとさえ実は思ったのである。
津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ想《おも》いいたらない運命に到着すべく余儀なくされた。
手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた名宛《なあて》の苗字《みょうじ》を小綺麗《こぎれい》な二階建の一軒の門札《もんさつ》に見出《みいだ》した。彼は玄関へかかった。そこで手に持った手紙を取次に出たお時に渡した
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