ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしその後《あと》には、書面を認《したた》める時、まるで彼の頭の中に入っていなかった事実が横《よこた》わっていた。手紙はすぐお延の手に落ちなかった。
 しかし津田の懸念《けねん》したように、宅《うち》にいなかったお延は、彼の懸念したように病院へ出かけたのではなかった。彼女は別に行先を控えていた。しかもそれは際《きわ》どい機会を旨《うま》く利用しようとする敏捷《びんしょう》な彼女の手腕を充分に発揮した結果であった。
 その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の留守《るす》から必然的に起る、時間の余裕を持て余すほど楽《らく》な午前を過ごした。午飯《ひるめし》を食べた後で、彼女は洗湯《せんとう》に行った。病院へ顔を出す前ちょっと綺麗《きれい》になっておきたい考えのあった彼女は、そこでずいぶん念入《ねんいり》に時間を費やした後《あと》、晴々《せいせい》した好い心持を湯上りの光沢《つやつや》しい皮膚《はだ》に包みながら帰って来ると、お時から嘘《うそ》ではないかと思われるような報告を聴《き》いた。
「堀の奥さんがいらっしゃいました」
 お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。昨日《きのう》の今日《きょう》、お秀の方からわざわざ自分を尋ねて来る。そんな意外な訪問があり得べきはずはなかった。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で来たかをさえ訊《き》かなければ気がすまなかった。なぜ待たせておかなかったかも問題になった。しかし下女は何にも知らなかった。ただ藤井の帰りに通《とお》り路《みち》だからちょっと寄ったまでだという事だけが、お秀の下女に残して行った言葉で解った。
 お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然に陥《おち》いる痕迹《こんせき》なしにその約束を履行するのは今であった。彼女はお秀の後《あと》を追《おっ》かけるようにして宅を出た。

        百二十三

 堀の家《うち》は大略《おおよそ》の見当から云って、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停
前へ 次へ
全373ページ中230ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング