、彼はまだお秀の様子を窺《うかが》っていた。腹の中に言葉通りの断乎《だんこ》たる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。彼はむしろ冷やかに胸の天秤《てんびん》を働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量《しょうりょう》した。そうしていっそ二つのうちで後の方を冒《おか》したらどんなものだろうかと考えた。それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのを慊《あきた》らなく思った。兄の後《うしろ》に御本尊のお延が澄まして控えているのを悪《にく》んだ。夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚《みな》して、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹《ごうはら》であった。そんなこんなの蟠《わだか》まりから、津田の意志が充分見え透《す》いて来た後《あと》でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。
 同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に充《み》ちていた。彼は成上《なりあが》りものに近いある臭味《しゅうみ》を結婚後のこの妹に見出《みいだ》した。あるいは見出したと思った。いつか兄という厳《いか》めしい具足《ぐそく》を着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。だから彼といえども妄《みだ》りにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。
 二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵《こし》らえかけていた局面を、一度に崩《くず》してしまったのである。

        九十八

 しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は階子段《はしごだん》の途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」と訊《き》き返した。薬局生は下《お》りながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。冷笑なこの挨拶《あいさつ》が、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着《おうちゃく》にした。芝居へ行ったぎり、昨日《きのう》も今日《きょう》も姿を見せないお延の仕うちを暗《あん》に快よく思っていなかった彼をなお不愉快にし
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