た。
「電話で釣るんだ」
彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日《あした》の朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方に惹《ひ》き着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。お延の彼に対する平生の素振《そぶり》から推して見ると、この類測に満更《まんざら》な無理はなかった。彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛《しとやか》に自分を驚ろかしに這入《はい》って来るお延の笑顔さえ想像した。その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。彼女は一刹那《いっせつな》に閃《ひら》めかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。今まで持《も》ち応《こた》えに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。
彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。放《ほう》っておけ」
この挨拶《あいさつ》がまたお秀にはまるで意外であった。第一はズボラを忌《い》む兄の性質に釣り合わなかった。第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。彼女は兄が自分の手前を憚《はば》かって、不断の甘いところを押し隠すために、わざと嫂《あによめ》に対して無頓着《むとんじゃく》を粧《よそお》うのだと解釈した。心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。
形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口《いとくち》を取り上げた時、一方では急込《せきこ》んだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自働電話を棄《す》てて電車に乗ったのである。それから十五分と経《た》たないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅《るすたく》に押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わ
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