り外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
「ええ、ええ」
 お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな袖《そで》へ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
「どうですか」
 小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい畳《たた》み皺《じわ》が幾筋もお延の眼に入《い》った。アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまた逆《ぎゃく》に行《い》った。
「ちょうど好いようですね」
 彼女は誰も自分の傍《そば》にいないので、せっかく出来上った滑稽《こっけい》な後姿《うしろすがた》も、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。
 すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐《あぐら》をかいた。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
 お延は急に口元を締《し》めた。
「奥さんのような窮《こま》った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」
 小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。
「ありがとう。御蔭《おかげ》でこの冬も生きていられます」
 彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から縁側《えんがわ》へ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて他《ひと》に笑われないようにしないといけませんよ」

        八十八

 二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端《とたん》、小林が後《うしろ》を向いた拍子《ひょうし》、二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。
 その時小林の太い眉《まゆ》が一層|際立《きわだ》ってお延の視覚を侵《おか》した。下にある黒瞳《くろめ》はじっと彼女の上に据《す》えられたまま動かなかった。それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。お延は口を切った。
「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
「注意を受ける必要がない
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