のじゃありますまい。おおかた注意を受ける覚《おぼえ》がないとおっしゃるつもりなんでしょう。そりゃあなたは固《もと》より立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」
「もうたくさんです。早く帰って下さい」
 小林は応じなかった。問答が咫尺《しせき》の間に起った。
「しかし僕のいうのは津田君の事です」
「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」
「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」
「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」
「聞きたいですか」
 鋭どい稲妻《いなずま》がお延の細い眼からまともに迸《ほとば》しった。
「津田はわたくしの夫です」
「そうです。だから聞きたいでしょう」
 お延は歯を噛《か》んだ。
「早く帰って下さい」
「ええ帰ります。今帰るところです」
 小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側《えんがわ》を二足ばかりお延から遠ざかった。その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。
「お待ちなさい」
「何ですか」
 小林はのっそり立ちどまった。そうして裄《ゆき》の長過ぎる古外套《ふるがいとう》を着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。
「なぜ黙って帰るんです」
「御礼は先刻《さっき》云ったつもりですがね」
「外套の事じゃありません」
 小林はわざと空々《そらぞら》しい様子をした。はてなと考える態度まで粧《よそお》って見せた。お延は詰責《きっせき》した。
「あなたは私の前で説明する義務があります」
「何をですか」
「津田の事をです。津田は私の夫です。妻《さい》の前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗《きれい》に説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」
「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に恥《はじ》を恥と思わない男として、いったん云った事を取り消すぐらいは何でもありません。――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう
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